「ふざけるな!このボケッ!」プロレスラー前田日明が殴る蹴るの鉄拳制裁……ネット上で有名になった“伝説の控え室ボコボコ事件”。29年前のあの日、何があったのか? ボコボコにされた坂田亘はどんな試合をしたのか? 坂田の対戦相手だった鶴巻伸洋が証言する、あの日の真相。【全3回の第3回/第1回、第2回も公開中】

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「お前すげえな」オランダで有名になった日本人

 1995年2月、鶴巻伸洋は2カ月半のオランダ修行に向かった。主に立ち技を学ぶためで、修行先はオランダキック界中量級の強豪ライアン・シムソンの所属するヴァゾーストジムである。日本でもキックボクシングジムに出稽古に行くなど、打撃技の習得に余念がなかったが、何せスパーリングの相手になるヘビー級選手が滅多にいなかった。そこで、ピーター・アーツやアーネスト・ホーストなどK‐1に数多くのヘビー級の強豪を輩出しているオランダを修行先に選んだのだ。

「今までリングスに参戦してきて、寝技ではいい勝負が出来ていたのに、打撃で逆転されるケースが多かった。それで、オランダに行ってヘビー級の選手とガツンガツンのスパーリングをやろうと思ったんです」

 しかし、日本からのプロ修行者の存在は、アムステルダムに住む格闘家の間で瞬く間に知れ渡った。ある日“オランダ格闘技界の総帥”クリス・ドールマンに練習に誘われたという。

「『アムスにいるのに顔を見せないのはどういうことだ? 折角だから一緒に練習しようぜ』って言うんですよ。それで、当初は週5日キックの練習に費やしていたけど、寝技の練習もやることにしました。月曜と金曜が寝技。火曜と木曜がキック。水曜がサンボ。柔道着を持って行っていたので道着を着てのスパーリングも繰り返しましたね」

「バス・ルッテンとも寝技のスパーリングをやったんだけど、アキレス腱固めで一本取ったんです。ドールマンにもアキレスで取りました。後はヘルマン・レンティングともやりましたね。足関節はオランダの選手には割と有効だったと思います。ただ、ドールマンは強かった。一言で言うとフィジカルの強さ、あの人は岩ですよ、岩(笑)」

 鶴巻がアムステルダムで、ドールマンやルッテンから一本取ったという情報は、インターネットが一般的ではないこの時代でも、東京の格闘家の間に伝わっていた。

「これは帰国してからの話ですけど、この頃、藤原組に所属していた臼田勝美さんと話してたら『お前すげえな、ドールマンから一本取ったんだって?』って言うんですよ。『その情報、どこで知ったんですか?』って尋ねたら『みんな知ってるよ』って言うんです。だから、割と広まっていたのかもしれません」

「もう1回やれ!」前田日明が命じた

 オランダから帰国して間もなく、鶴巻伸洋の次戦が決まった。相手は前年11月以来の坂田亘。

 舞台は5月20日の鹿児島アリーナ大会である。鶴巻にとっては雪辱戦に違いないが、坂田にとっても、いわくつきの一戦となった。というのも、デビュー戦で鶴巻相手に判定勝ちを収めた坂田亘は、次戦で藤原組の田中稔に腕十字固めで一本勝ち、さらに、同じく藤原組の小野武志にもやはり腕十字固めで一本勝ちを収めるなど快調に白星を重ねていた。そこで、デビュー戦に勝利を飾った鶴巻と、あえて再戦が組まれたのは、次の理由があったと鶴巻は振り返る。

「前田(日明)さんの意向だったようです。前の年の彼のデビュー戦で、僕の方が先に先に仕掛けていって、彼が後手後手に回った。それでもダウンのポイントで彼が判定勝ちを収めたでしょう。前田さんはこれが不満だったみたいで、弟子の坂田選手に『もう一回やれ』って命じたらしい。でも、僕もオランダで自信をつけていましたから、噛ませ犬になるつもりは毛頭なかったし、何ならリベンジしようと思っていました」

左膝が「バリバリバリッ」

 1995年5月20日、リングス鹿児島アリーナ大会は満員の観客で膨れ上がった。実はこの大会は、鹿児島に住むファンが「鹿児島でリングスの大会を」という署名運動を行って、実現にこぎつけたファン主導の大会だったのだ。その記念すべき大会の第1試合でなければ、試合後、ああいった事態は起きなかったかもしれない。

 試合開始のゴングが鳴った。双方ローキックを交換し合い、寝技にいきながら軽くしのぐという静かな立ち上がりとなった。それが5分が過ぎた頃、袈裟固めのような体勢で鶴巻が上になったときである。

「バリバリバリッ」

 一瞬何の音かわからなかったが、すぐに、自分の左膝が鳴ったと気付いた。

「最初は痛くも何ともないんですよ。ただ、違和感があっただけ。それでスタンドの状態に戻って、軽くローキックを打ってみたら、膝が抜ける感覚がした。『何だ、これ』って思ったら、徐々に痛みが湧いてくる。後でわかったことなんだけど、この時点で靱帯が断裂していたんです」

「理由ですか? 今もわからないんだけど、古傷というか、ずっとダメージが溜まっていたとは思うんです。それに気付かず、オランダに行ったり、練習を重ねていたりしていて、それが試合中に決壊したってことかな。でも、試合前に靱帯を切って、試合そのものが中止になることがなくてよかったとは思うんです。相手にもファンにも失礼ですから。ただ、突然のことなので、やはり戸惑いました」

 そこからは、当然ながら動きは悪くなった。しかし、アクシンデントを知ってか知らずか、相手の坂田亘の動きまでが散漫になっていったのである。

「おそらくですけど、坂田選手も『鶴巻がドールマンから一本取った』『ルッテンから一本取った』っていう情報を聞き知っていたのかもしれません。僕としては動きたかったけど、本当に左膝が言うことを聞かない。正直言って、寝技なら取られることはないと思っていました。でも、相手も積極的に仕掛けてこない。それで、何だかはっきりしない試合になってしまった。結果は30分戦い抜いての時間切れ引き分け。前は判定負けだったので、結果だけ見たら一歩前進したみたいだけど、もちろん、全然納得していないですよ(苦笑)」

 試合後、ドクターの診察を受けて、左膝靱帯断裂を知った鶴巻は、ガチガチにテーピングをするなど応急処置を施したが、翌日は、所属するサブミッション・アーツ・レスリングの鹿児島支部によるセミナーが行われることになっており、当然、顔を出す予定となっていた。しかし、この状態では指導が出来るはずもなく、顔を見せただけに留まった。帰京して、病院で診察を受けたのは3日後のことである。

「前田さんがホメてくれた」

 鶴巻が控室で激痛に悶えている頃、赤コーナーのバックヤードではちょうど、前田日明による制裁が繰り広げられていたことになる。そのことは把握していたのだろうか。

「その話は後日知りましたが、こっちは靭帯断裂が判明してそれどころではなかった。だから、坂田選手が制裁を受けた後に、延々とスクワットをしていたことも知らなかった。前田さんが激怒したのは、前の年のデビュー戦のときに『次はないぞ』って忠告した伏線があったのと、やっぱり、鹿児島のファンの署名で決まった大会だったのも大きかったと思います。『大切なファンの前で何て試合をしてるんや』ってことでしょう」

「自分までが前田さんに怒られたと思ってる人も、時々いるんだけど、それは全然ないです(笑)。この数日後に、ある場所で前田さんと麻生(秀孝)先生が会ったらしくて、麻生先生から靱帯断裂を明かしたそうです。そうしたら『そうなんですか。鶴巻ってあいつ根性ありますよね』って褒めて下さったとか。だから、僕は前田さんに対してはいい印象しかない。ただ、中学生の頃に抱いた『UWFに入る』という目標が実現していれば、新弟子になっていたわけで、どうなっていたかなって想像することはあります(苦笑)」

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 この試合が、鶴巻伸洋にとってリングスラストマッチとなった。それ以後は、プロ修斗、パンクラス、アブダビコンバット、キックボクシング、ケージフォースと、「総合格闘技のよろず屋」として、黎明期の日本の総合格闘技を支えた。1999年1月に下北沢で行われた寝技限定ルール「コンテンターズ」では、その後、PRIDEでも活躍した高瀬大樹から、アキレス腱固めで一本勝ちも収めている。現在は、平塚市の湘南格闘クラブで指導するかたわら、ちがさきプロレスのリングに上がっている。

「あの動画の影響で、いろいろと話を聞かれる機会も増えました。あの試合は自分にとっては『若い頃の不思議な記憶』って感じで、特にこれといった思い入れはないんです。ただ、一つ言えるのは、若かった時代に何事も全力で取り組んだから、現在があるってことでしょうかね」

<全3回/第1回、第2回から続く>

文=細田昌志

photograph by AFLO