2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。MLB部門の第2位は、こちら!(初公開日 2024年1月1日/肩書などはすべて当時)。

 球史に残る大投手の生涯ベストシーズンの成績を比較して、日本プロ野球史上No.1投手を探る旅。沢村栄治、江川卓、山本由伸、野茂英雄らに続く第15回は、「世界一の奪三振王」江夏豊だ。

 日本プロ野球史上、江夏豊ほど伝説に彩られた投手はいないだろう。オールスター1試合9連続奪三振、オールスター3試合にまたがる15連続奪三振、史上唯一の延長戦(11回)でのノーヒットノーランを自身のサヨナラホームランで達成、高度な投球術を駆使して日本シリーズを制した“江夏の21球”。

 そして、高卒2年目(1968年)の20歳で達成したシーズン奪三振401個の世界記録である。

メジャー監督、野村克也が絶賛していた…

 それまでの日本記録は稲尾和久(西鉄)の353個(1961年)。1900年以降の近代野球におけるメジャー記録はノーラン・ライアン(エンゼルス)の383個(1973年)だから、江夏は日米を通じて史上唯一の400超奪三振記録者になる。しかも稲尾が140試合制、ライアンが162試合制だったのに対して、江夏は133試合(当時は130試合制だが引き分けの3試合を追加)における達成である。

 この年、1試合16奪三振(セ・リーグタイ記録)、二桁奪三振20試合(日本記録)、1イニング3者三振20回(日本記録)、23イニング連続奪三振(当時の日本記録)と奪三振に関する記録を量産。秋の日米野球でも江夏は、セントルイス・カージナルスを相手に2試合計9回を投げて15個の三振を奪った。シェーンディーンスト監督は「サウスポーでいまの大リーグにもこれほどの投手はいない」と驚き、江夏も「ど真ん中に投げても打てなかった」と語っている(『サウスポー魂』PHP研究所/川上健一著)。

 かの野村克也が「打者がストレートを待っていても、ストレートで空振りが取れる“超本格派投手”は、金田正一と江夏豊の二人だけ」(『私が見た最高の選手、最低の選手』東邦出版/野村克也著)と絶賛した直球は、いかにして生まれたのか。

「ストレート1本」でドラフト“競合”

 江夏は、中学では野球部に入ったものの、理不尽な体罰に反発して2カ月で退部。陸上部に入り直して砲丸投げで投てきに必要な筋力を鍛え、バレー部でジャンプ力を養った。

 大阪学院高校では野球部に入部。ここでストレートに特化せざるを得なくなる事態が起きた。

 「高校三年になったとき、職員室に行って、塩釜監督に『カーブを教えてください』とお願いしたら、『なに?』と言われて、次に返ってきたのは鉄拳でした。『貴様、真っすぐでストライクも放れんのに、なにがカーブじゃ!』。それからはもう『カーブを放りたい』などという気持ちはなくなりました」(『エースの資格』PHP新書/江夏豊著)

 江夏はストレート一本で、3年夏の大阪大会準決勝までの6試合に登板。失点2、奪三振81という驚異的な成績を残し、阪神、巨人、東映、阪急の4球団の1位指名競合の末に阪神に入団する。

「伝説のシーズン」前にある出会い

 1967年のプロ1年目の春キャンプで、カーブの習得に取り組んだがものにならず。結局、この年はストレートと“曲がらないカーブ”だけでセ・リーグの奪三振王(225個)に輝いた。

 翌年の春キャンプで、江夏は「感謝してもしきれないほどの恩人だった」と述懐する恩師・林義一ピッチングコーチに出会う。

 林は「ホームランの数を減らすには、もう少しコントロールをよくしなければならない。そのためにはフォームのバランスが大事。余分な力が入っているので、それを抜くための練習をしていこう」とキャッチボールから指導。このフォーム改造によってコントロールが改善した。

 さらに、林から渡されたゴムボールを使い、スナップを利かせる練習を繰り返した。その結果、カーブのキレが劇的に向上。外角低めにコントロールされた快速球と、高速で小さく曲がり落ちるカーブという江夏のピッチングの基本線が2年目のシーズン前に確立されたのだ(『エースの資格』)。

王貞治を完璧に封じた「あの試合」

 こうして迎えた1968年シーズンで、“江夏の401奪三振”が演じられた。筆者は9月17日の試合、つまり王貞治から奪った354個目の日本記録達成の瞬間をテレビ観戦していた。

 同年の王は、プロ10年目の28歳。打率.326、本塁打49本の二冠王と全盛期にあったが、最初の2打席は2三振。野生のカンで打つ長嶋茂雄と違って、精密機械の王は律儀にストレートとカーブ両方の球種に反応しようとして、どちらにも対応できていないように見えた。3打席目も1−2から外角のストレートに空振り三振。この年の江夏は、全盛期にあったプロ野球史上最高打者をも圧倒する球威を誇っていた。

 では、全盛期の江夏の球速はどのくらいだったのか。この当時スピードガンはまだなかったが、日刊スポーツの金子勝美カメラマンが、1秒間に48コマの連続撮影ができる最新のドイツ製カメラを使用して江夏の速球を撮影。ボールが投手の手を離れて捕手のミットに収まるまでに何コマ要するか数え、そこから計算して球速を出したところ、江夏の球速は156キロだった。これは投手の手を離れてからミットに収まるまでの平均球速で、一般に初速と終速には10キロ程度の差があることから、全盛期の江夏のストレートの初速は161キロ前後になる。

 因みに、この方式で計測した中では江夏が最速であり、当時パ・リーグの速球王だった近鉄の鈴木啓示は152キロだったという(『牙―江夏豊とその時代』埼玉福祉会/後藤正治著)。

江夏豊が“引退”するまで「じつはメジャーで…」

 後年、肘と肩を痛めて長いイニングを投げるのが困難になった江夏は、阪神からトレードされた南海で野村に出会い「革命を起こそう」と29歳で抑えに転向。クローザーとして史上初の両リーグMVPに輝くなど活躍したが、西武に移籍した1984年に管理野球の広岡達朗監督との確執から二軍で干され、引退を余儀なくされる。

 まだやれる、と野球に未練を残していた江夏は「死に場所を求めて」(『剛球列伝』文春文庫)海を渡り、メジャーに挑戦した。野茂英雄が26歳でドジャース入りするより10年も前の1985年の春、江夏36歳のときだった。

 アリゾナで行われたブルワーズのキャンプに参加した江夏は、投手だけで30人ほどもいる中で最後まで生き残り、最終1枠を若手投手と争ったが、最終テストで打ち込まれて力尽きた。こうして江夏は現役キャリアに幕を下ろした。

現王者・山本由伸と比較…どちらがNo.1か

 今なお伝説的投手と語り継がれる豪腕は、「日本プロ野球史上No.1投手」といえるか。先発投手としての江夏のベストシーズンは、401奪三振を記録して沢村賞に輝いた1968年。この年の江夏と、当企画の現チャンピオン山本由伸(2021年)との勝負である。 (赤字はリーグ最高、太字は生涯自己最高)

【1968年の江夏】登板49、完投26、完封8、勝敗25-12、勝率.676、投球回329.0、被安打200、奪三振401、与四球97、防御率2.13、WHIP0.90

【2021年の山本】登板26、完投6 、完封4、勝敗18-5、勝率.783、投球回193.2、被安打 124、奪三振206、与四球40、防御率1.39、WHIP0.85

 当企画で重視する打者圧倒度――1試合あたりの被安打数、9イニングあたりの奪三振率、防御率、WHIP――を見ると、被安打数は、江夏の5.47に対して山本5.76とわずかに江夏リード。奪三振率は、江夏の10.97に対して山本9.57と、ここはさすがに江夏が圧倒。防御率は、江夏の2.13に対して山本1.39と、これは山本が大きくリード。WHIPは江夏の0.90対山本0.85とわずかに山本が勝る。従い、この4項目では2勝2敗の五分となり、判定勝負になる。どちらが打者を圧倒していたといえるのか。

 WHIPに対して防御率に大きな差があるのは、被本塁打率の違いが影響している。江夏が1試合当たり0.79本被弾しているのに対して、山本はわずかに0.33本。1試合当たりの四球数でも、江夏の2.65に対して、山本1.86と山本が勝る。多彩な球種を正確なコントロールで低めに集めて本塁打を打たれない――それが山本の投球スタイルといえる。

 一方、江夏はストレートとカーブだけというシンプルな投球ながら、圧倒的な球威で世界記録となる三振の山を築き、1試合当たりの被安打率でも山本を上回った。三振を奪い、ヒットを打たれない――打者を圧倒したという点では、江夏が勝ると言えるのではないか。

 さらに、当企画では時代の違いによるところが大きい登板数、完投数、勝利数、投球回数は重視しないが、今回のように成績が拮抗した場合、チーム試合数の37%に登板した江夏と、18%の山本では、コンディショニング面も考慮するのがフェアだろう。

 以上から、チャンピオン交代で江夏を新チャンピオンとしたい。

文=太田俊明

photograph by Sports Graphic Number