NumberWebで特集が始まった「アスリート親子論」。これまで公開されてきた記事の中から、特に人気の高かった「アスリートの親子関係」にまつわる記事を再公開します。今回は、糸谷哲郎八段と父・康宏さんの物語です。《初公開:2021年2月6日/肩書などはすべて当時》
糸谷哲郎八段が棋王戦(渡辺明棋王)に初挑戦する。圧倒的な早指しで竜王を獲得するなど将棋ファンに強烈なインパクトを残すとともに、将棋界では初となる“プロ入り後、国立大に進学した棋士”となり、大学院にも在籍した異色の棋士だが、その父・康宏氏に愛息のこれまでの歩みや教育法を、中・高校時代の同級生だった筆者と語らい合ってもらった(全3回の1回/第2回、第3回はこちら)広島市の中心部と日本三景の一つ宮島の中間あたりの小高い丘に、広島学院というカトリック系の中高一貫教育の私立男子校がある。一学年が180人程度で、生徒のほぼ全員が大学へ進学する。
2月6日に始まる棋王戦五番勝負で渡辺明三冠(36)に挑む糸谷哲郎八段(32)は、この学校の出身だ。
1998年、小学校4年で日本将棋連盟関西奨励会(大阪)に入って以後は毎月2日、新幹線で通って将棋の修行をした。その一方で、受験勉強をして競争率数倍の広島学院中に合格する。
高校2年で奨励会三段リーグを勝ち抜き、プロ棋士となる。高校3年の10月、若手棋士の登竜門である新人王戦で優勝。全棋士中最高の14連勝を記録し、将棋大賞の連勝賞と新人賞をダブル受賞。その強さから「怪物君」と呼ばれた。
この年の末から受験勉強を始め、大阪大学文学部に合格。ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーを研究した。
羽生、森内を打ち破って竜王獲得&修士課程修了
それと並行して大学3年のとき、2009年度NHK杯で準優勝。2011年には大阪大学大学院へ進み、ハイデッガー研究者で自身も哲学者のヒューバート・ドレイファスを研究した。
2014年、竜王戦挑戦者決定戦で羽生善治名人(当時)を破って挑戦権を獲得し、森内俊之竜王を倒して初のビッグタイトルを獲得。2017年3月、修士課程を修了した。
中学を卒業してプロになったケースが5例あり、近年でも大学に通いながら対局に臨む棋士が増えたとはいえ、将棋界では異色の高学歴棋士である。
そして2018年にA級棋士となり、現在までその地位を保つ。昨年、棋王戦挑戦者決定トーナメントを勝ち抜き、今年、7年ぶりのタイトル獲得を目指す。
また棋士としての本業の傍ら、日本将棋連盟棋士会副会長として将棋の普及にも務めている。その内容がユーモラスで、DJをやったりスイーツや食べ物のレポートをしたりとサービス精神も旺盛。「ダニー」の愛称でファンから親しまれている。
なんと父と筆者は同窓生で、サッカー部のチームメイト
実は、糸谷八段の父・康宏氏も広島学院出身。ブラジル・サンパウロ在住の筆者は氏の同窓生。中学、高校のサッカー部でもチームメイトだった。
広島学院は、康宏氏と私を含む1974年度の卒業生から東大へ23人、京大へ13人、阪大へ10人、医学部・医科大へ29人、糸谷八段が卒業した2007年の卒業生から東大へ17人、京大へ14人、阪大へ11人、医学部・医科大へ17人進学している(浪人後の合格を含む)。ありていに言えば、中国地方有数の進学校ということになる。
当時の康宏氏は極めて優秀で、広島学院での成績は常にトップクラス。現役で東大工学部に合格して機械工学を専攻し、東大大学院へ進んで修士課程を修了。中国電力(本社広島)で原子力関係のエンジニアとして働き、関連会社を経て2年前に定年退職している。
大学受験シーズンの今、父親を含めた糸谷一家の基本的な教育方針や広島学院時代の話、糸谷八段がいかにして小学校から大学院まで学業と将棋を両立させたか、そして八段の人となりなどについて康宏氏からじっくり話を聞いた(以下、広島学院のことを「学院」、康宏氏のことを「糸谷」と記す)。
糸谷家は代々、宮島で商売をしていた
――学院時代、糸谷は日本三景の宮島に住んでいたんだよね?
「そう。代々、宮島で商売をしていて、両親の代では商店と自営業をやっていた」
――どうして学院に入ったの?
「父親が教育熱心だったんだ。広島の進学校というと他に修道と広島大学附属があったけど、家から一番近いのが学院だった」
――なるほど。うちは母親が熱心なクリスチャンだったから、カトリック系の進学校ということで入れたんだと思う。ミッション・スクールでありながら、“海軍タイプ”と呼ばれる紺の詰襟(ボタンなし)の制服。僕らが入学した頃は、バッグを持つことを禁じられ、紺の風呂敷に勉強道具と弁当を包み、脇に抱えて通学していた(※その後バッグを持てるようになり風呂敷は廃止)。僕は、おふくろに「あの制服、カッコいいじゃない」と言われて、その気にさせられたんだ(笑)。糸谷は、あの制服、気に入ってた?
「ああ、僕は好きだったよ」
――そうなんだ。で、君は宮島から本土へフェリーで渡り(約15分)、30分くらい広島電鉄の電車に乗って古江(学院の最寄り駅)で降り、かなり傾斜がある坂道を15分ほど登ったわけだから、通学に1時間程度かかったのかな。
「そう、朝はね。でも、帰りは電車とフェリーの乗り継ぎが悪くて待ち時間が長く、もっと時間がかかった」
――学院に入ったら、外国人の神父の教師が多くて驚いたよな。2メートル近い長身だったり、学生時代にアメフトをやっていたとかでプロレスラー顔負けの巨体だったり……。外国人教師でも日本語は良く勉強していて、難しい漢字を黒板にすらすら書いていた。でも習字はやらなかったようで、化学を教えていたアメリカ人のB先生の字なんてほとんど判読不能。訛りがひどくて、何を言ってるかほとんどわからない人もいた(笑)。
「そうだったなあ……でも、生徒の方が次第に慣れていったな」
――日本人でも、神父やクリスチャンの先生が多かった。特に印象に残るのが、倫理を教えていたO先生。第二次世界大戦末期、広島県内で人間魚雷「回天」の訓練を受けていてまもなく突撃、というときに戦争が終わった。それからクリスチャンになり、大学で神学を修めて神父になったという。
「そう。特攻隊の生き残りにしてカトリック神父にして倫理の先生(笑)。謹厳実直で、厳しい人だったね」
東大に行った秀才の“いたずら”
――中学に入学してすぐにわかったのは、とてつもなく頭がいい奴らがいて、僕が少々努力したって絶対に追いつけないということ。糸谷もその1人だったんだけど、君から見て「こいつにはかなわない」という奴はいたの?
「Uだね。物静かで寡黙で、彼が話すのは出席番号が次だったU田とだけじゃなかったかな」
――バルセロナの下部組織時代、口を開いたことがないことを訝しがられたメッシみたい(笑)。
「彼は全部の科目ができたけど、とりわけ数学がとてつもなくできた。先生が、『Uに100点満点を取らせないよう工夫してテストを準備したんだけど、あいつ、また100点取りやがった』と悔しがっていたからね」
――秀才グループの中で、僕が妙に気が合ったのがM。こいつも東大へ行ったけど、全科目が無茶苦茶にできた。運動神経も良くて、柔道二段だった。期末テスト前日の放課後、図書館へ行って勉強しようとしたら、Mが『ワシも一緒に行くで』と言うんだ。わからないことがあればこいつに聞けばいいと思って『いいよ』と答えた。
だけど、こちらが一生懸命勉強しているのに、奴は何もせず、僕の体をくすぐったりとか子供じみた邪魔をするんだ。頭にきたのと同時にやる気が失せて、このときの成績は散々だった。Mだって家では多少勉強していたと思うし、またそう思いたい。そうじゃなければ、こちらが救われないよ。
「ハハハ、そんなことがあったんだ」
――糸谷は、大学受験はどうやって準備したの?
「学院までの通学時間が長いから、その時間も使って勉強していたな」
――結構、地道に勉強していたんだ、少し安心した(笑)。でも学院では「常に紳士たれ」と言われて、乗り物で席が空いていても座ってはいけないことになっていた。帰り道、糸谷は疲れていても立って勉強していたの?
「そう。電車の同じ車両に乗っていた先生から叱られた奴がいたからな」
――そうなんだ。やっぱり真面目だったんだな。
「宮島線の上りの電車に乗ると、市の中心街へ向かう。でも、下りは繁華街とかなくて、いつも学校と家の往復だった。先生から『お前、西広島で女の子と一緒に歩いとったじゃろう』などと注意された奴がいた。僕はそんなことは一度もなかったから、そいつが羨ましかったな(笑)」
糸谷八段も「勉強は要領です」と言っていたが
――大学受験というと後悔することがある。当時は「四当五落」(睡眠時間が4時間以下になるくらい勉強したら合格するが、5時間以上寝るようなら受験に失敗する)っていう言葉があったじゃない。僕はまともに受け取って、ひたすら勉強したらいいと、効率を重んじる発想が欠落していた。糸谷は「四当五落」を信じてた?
「いや、そうでもなかった」
――さすがだな。糸谷八段も「勉強は要領です」と言っている。大学に入ろうと思ったら、将来役に立つかどうかわからないことを勉強しないといけない。であれば、効率良く勉強して結果を出す方法を見つけるのも、頭の良さなんだよな。で、君は現役で東大に合格し、大学院にも進んだ。院に行ったのはどうして?
「単純に、もっと勉強したかったから。文系だと院へ行ったら就職に有利になるどころか不利になる場合もあるけど、理系なら不利益にはならないしね」
――なるほど。で、院を出てから広島へ戻って中国電力に入社したわけだ。結婚したのはいつ?
「1983年、僕が27歳のとき。妻とは、学生時代に東京で知り合った」
――奥さんの実家は鎌倉で、父親がマルクス経済学が専門の大学教授で、哲学にも造詣が深かったと聞いたけど……。
「そうだね」
――そして、1988年に哲郎君が生まれたわけだ。どうしてこの名前を選んだの?
「哲学の哲を取った。夫婦で決めた。哲郎が1、2歳の頃、『この子は自分とは頭の出来が違う』と思ったな」
――ええっ? 東大大学院を出た原子力エンジニアの君が、赤ん坊に「この子には負ける」って思ったの?
「そうなんだよ……」
《インタビュー第2回に続く》
文=沢田啓明
photograph by Kyodo News