2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。女子陸上部門の第4位は、こちら!(初公開日 2024年2月10日/肩書などはすべて当時)。

 2024年3月3日、新谷仁美(積水化学)が再び東京マラソンに帰ってくる。2022年の東京マラソンで13年ぶりにマラソン復帰。レース後「マラソンはもう嫌。2度とやりたくない」と語っていたが、この数年はマラソンでの日本記録更新に挑み続けている。

 昨年は、目標達成まで「あと数秒」に迫ったレースや、そこからの失敗レースも経験した。そんな中で、この1月には自身がペースメーカーを務めた大阪国際女子マラソンで、前田穂南(天満屋)が日本記録を樹立した。19年ぶりの偉業となった同レースでは、一体何が起こっていたのだろうか。《NumberWebインタビュー全3回の2回目/#3に続く》

ベルリン後、なかなか決まらなかった「覚悟」

 昨年9月のベルリン・マラソンで新谷仁美は「日本新記録の樹立」という目標を逸した。

 一夜明け、SNSで「マラソンの日本記録更新という目標を諦めたくないので再度挑戦したいと思っています」と公言したが、言葉とは裏腹にマラソンを走る「覚悟」がずっとできなかったと話す。

「ヒューストン・マラソンのときは次への課題がすぐに理解できたのですが、ベルリンはまず結果を受け入れて消化するところからのスタートだったので、課題を見つけるまでに時間がかかって」

 課題が見つかれば、次のターゲットに気持ちを切り替えることができる。だが、課題が見つからないことには、気持ちが前に向かない。

 そんなとき以前の新谷であれば“全く走らない”という空白期間が生まれていたが、ベルリン後はすぐに練習に復帰した。「大人になったんです(笑)。それに走らないと戻すまでが大変だし、すぐ太ることが分かったから」と笑う。

 ただ、練習はしていても、気持ちは定まらず、なんとなく過ごす日々を送っていた。

 ベルリンでの課題にようやくたどり着いたのは、駅伝シーズン直前。マラソンの練習を少しずつ始めた頃だった。

 実は発表こそしていなかったが、東京マラソンに出場することは決めていたという。

 だが課題は見つかったとはいえ、マラソンに向き合う覚悟はまだできていなかった。

「ベルリンから駅伝までの期間、練習を外すことはなかったんですが、上半身と下半身の動きが連動しないとか、むくんでいて体の循環が良くないとか、疲労が抜けないとか、しっくりこない状態が続いていて。そんな状態でなんとなく練習していたから、結果があんなことになった。

 クイーンズ駅伝で区間賞は取れないし、都道府県駅伝でもあんな不甲斐ない走り(区間5位)をして。『絶対にここで結果を出す!』という決意でやっていたわけじゃなかったから、失敗に繋がってしまったんです。ただ一方で、練習はこなせていたので、『自分はだんだん結果を出せなくなっているのかな』と自信を喪失していたところもあって……。都道府県駅伝の後は、東京マラソンに出るのをやめようかなと思っていました」

転機は大阪国際の「ペースメーカー」

 その想いに変化があったのは、大阪国際女子マラソンのペースメーカーがきっかけだった。

「この時期にペースメーカーを引き受けたのは、関西テレビの方がずっと私のことを推してくださっていたのと、私は海外合宿などもしないので、良いトレーニングになると思ったんです。不安はあったけど、受けた以上は、その思いに応えたい、東京はどうでもいいけれど、大阪だけはちゃんとしなくてはとスタート地点に立ちました」

 新谷に任されたのは15kmから30kmまで、3分20秒ペースで引っ張るというもの。

 野口みずきからは、3分20秒で30kmをペースメイクするきつさも教えられていたが、練習の一環として臨むため、あえてピークは合わせることはしなかった。

 新谷の状態を把握していたコーチの横田は「あまりにきつければ途中で辞めてもいい」とアドバイス。新谷自身もペースメーカーの役割を遂行できないのであれば、選手の邪魔になるだけ……と、最悪途中で止めることも視野に入れていた。

「実は私、途中で運営にキレたんですよ」

 レースがスタートすると、新谷はやはりリズムに乗れず、もどかしい思いを抱えていた。

「15kmまでは私が引っ張る必要はなかったのですが、それでも他の選手と同じように先頭集団についていかないといけない。それなのにものすごく走りにくくて、このままでは30kmまで持たないと、9kmあたりで集団から一歩ずれたんです。たまたま日本人選手が3人私についてくれたので、見た目的にはそう見えなかったかもしれないのですが、あの時は自分のリズムに戻すのに必死でした」

 結果的にこの選択が功を奏し、自分のリズムを取り戻した新谷は、そこから完璧なペースメイクを見せた。

「ただ、実は私、途中で運営にキレたんですよ」

 大会前のブリーフィングで、選手がもし前に出たとしても、ペースメーカーは「3分20秒を必ずキープする」ように念を押されていた。そして、実際に21km地点で日本記録を更新した前田穂南がペースメーカーの前に出た。

「ここで他のペースメーカーがペースアップをし始めたんです。さらに、その流れについていく選手が出てしまって、私1人が遅れているように見える状態になって。本来、指示を出すべきのスタッフも何も言わないから、前に出るべきなのか、タイムを刻み続けるのかわからないままの状態が4〜5km続いたんです。それで26kmあたりで、走りながらバイクに乗っている人に『私どうしたらいいんですか!?』ってぶちギレたんです。

『新谷さんが正しいから、大丈夫です』と言って、そこでようやく前を行くペースメーカーに『速すぎる。新谷さんがペースリーダーです!』と、注意し始めたんですけど、こっちからしたら『あと4kmしかないし、遅いよ!』って感じですよね。結果的には前田選手が日本記録を更新した大会ということになりましたけど、あそこでついていったことで後半失速してしまった選手もいましたから……」

 もちろんついていった選手本人にも責任はある。だが、それでも新谷はこう言葉を継ぐ。

「選手は(先頭争いの)他にもいるのだから、彼女たちも結果につながるように責任をもってやってほしい。ましてや、これだけ日本長距離界の低迷が問題視されているのだから、盛り上げるためにもしっかりとしたオーガナイズをしてほしいと願っています」

ネガティブ思考も「結果に繋がるなら」OK

 一方で、新谷サイドから見れば、アクシデントがありながらも30kmまで完璧なペースメイクをこなすことができたとも言える。それは、久々に手応えを感じた瞬間だった。

「調整をせずに臨んだこと、途中でやめるかもしれないと思うほど自信がなかったこと、引っ張ってくれる人がいなかったこと、自分のリズムが掴めなかったこと、選手のことを気にしながら走ったこと。それなのに想像よりもずっとうまく走れた。新田さんに頼ることもなく、他の選手を気にしながらも、自分の中でリズムを作って30km走るってこんな感じなんだって。

 そう考えると、ベルリン・マラソンは自分の力を過信していたと思うんです。ヒューストン・マラソンで日本記録まで12秒だったから、『高速コースのベルリンなら(日本新が)出る』って、横田さんも私も過信しすぎて、ああいう結果になっちゃったんじゃないかと。元々、自分に期待せずにスタートラインに立つのが本来の私で。失敗して当然じゃないけれど、自分を守る意味で『失敗しても大丈夫』って言える状態でスタートに立ってもいいじゃないかと。ネガティブだらけでも、うまく結果につながれば、結果オーライですよね。だから東京マラソンでは自分に期待せずにスタートラインに立ちたいと思っています」

 結果的に日本記録が出たハイレベルなレースで、ペースメーカーの任を全うすることができた。それは新谷本人にとっても大きな自信になったという。では、満を持して向かう3月の東京マラソンで、日本長距離界の女王が目指すものは一体、何なのだろうか。<次回へ続く>

文=林田順子

photograph by L)Hideki Sugiyama、R)AFLO