2000年ドラフト会議で、中日ドラゴンズから1位指名を受けた右腕・中里篤史。しかし、星野仙一や落合博満ら歴代の指揮官から高く評価された才能は、プロ野球の世界で最後まで輝きを放つことはなかった。“悲運のエース”と呼ばれた天才ピッチャーは今…。【NumberWebインタビュー全2回の前編/後編へ続く】

 今から23年前の2001年9月、故・星野仙一監督の中日監督としてのラストイヤーのことだ。闘将がナゴヤドームの先発マウンドに送り出した高卒ルーキーの姿に、名古屋のファンは“未来のエース”の姿を予期した。

 相対する巨人の強力打線に対して150キロを超えるストレートで真っ向勝負。異常なまでに打者の手元でノビるボールに、打ちそこなった高橋由伸が首をかしげ、松井秀喜は「スピードがある」と驚き、清原和博は「ええ投手になるで!」と絶賛した。

 だが、その有り余る才能はプロ野球の世界で最後まで花開くことはなかった――。

「パパが取材を受けるの?」

 中里篤史、41歳。度重なる怪我に泣いたその野球人生は時に「悲運の天才」や「ガラスのエース」と評され、引退から10年以上経った今なおプロ野球ファンに語り継がれている。当時を知るOBやファンたちは、談義の後にはこんな言葉を続けるのだ。

「もし、中里が怪我なく過ごしていたらどんな成績を残していたのか」

 NPB通算34試合登板で、成績は2勝2敗。通算防御率は4.65。10試合以上の登板したのは2006年、2008年の2シーズンのみ。だが、その“一瞬の輝き”は後世にも鮮烈な印象を残した。石川歩(千葉ロッテ)、斉藤優汰(広島)ら多くの野球人が中里の投球に強い影響を受けたことも明かしている。

「取材を受けるのはもう何年ぶりですかね。娘に『明日は取材だから』と伝えると、『パパがー?』とゲラゲラ笑っていましたよ(笑)」

 185cmの身長に、服の上からでも筋肉質だと分かる現役さながらの引き締まった体型は一目でアスリートであったことを想起させる。東京ドームで取材に応じた中里は、2011年に引退した後、巨人でスコアラーへと転身していた。

 今年でスコアラーとしては13年目を迎え、選手としてのキャリアよりも長くなった。しかし、それでも中里に「あの時のストレートは一体どれくらいノビていたんですか」と、質問を投げかける選手もいるという。

「ありがたいことに、今でも本当に多くの方にルーキー時代の1試合目、ジャイアンツ戦の投球が印象に残っていると言って頂けるんです。正直、あの試合があったから、怪我をした後も期待をしてもらっているとも感じていましたよ。その後は、ずーーっと、あの試合の球をもう一度みなさんに見せたい、ということしか考えていなかったですね」

先輩・朝倉健太も驚き「中里は快速球」

 2000年のドラフト会議で1位指名を受け、春日部共栄高校から中日に入団。高校時代からストレートとカーブの2球種のみで三振の山を築き、3年夏には埼玉大会・決勝で浦和学院高の坂元弥太郎(元ヤクルトスワローズ他)と高校球史に残る投げ合いを演じた。

 ルーキーイヤーの2001年はファームで7勝を挙げ、150キロオーバーの球速を見せて台頭。チャンスを勝ち取った中里は、冒頭の通り、同年9月にナゴヤドームで一軍デビューを果たした。中里が当時を振り返る。

「登板感覚や体力面の課題は見えましたが、ストレートは通用する感触を持ちました。自分のパフォーマンスがしっかり出せればプロでもやれる、ということは感じましたね」

 重力に逆らうかのように高めに浮き上がるストレートの質は、好投手が揃っていた中日においても際立っていた。首脳陣だけではなく、同じ投手陣でもその素質を絶賛する者もいた。前年のドラ1である朝倉健太は当時の中里との対談でこう話している。

「中里って前評判がめちゃくちゃ高かったでしょう。だから、どんな選手なんだろう…ヤバいな〜って思っていたんだよね。実際には、評判通り…いやそれ以上かもしれない…!(省略)同じ速球派でも中里は快速球。僕は豪速球タイプだから。豪速球はプロじゃあなかなか通用しないんですよ」(プロ野球ai/2002年1月号より)

 しかし、先発ローテーション入りが期待された2002年のキャンプで悲劇は起きる。ミーティング後、ホテルの階段を降りている最中に足を滑らし、とっさに右手で手すりを掴んだ瞬間、右肩を脱臼したのだ。診断結果は右肩関節唇および関節包の損傷。利き腕の脱臼という投手にとっては致命的な大怪我から、復帰へ向けた3年超にも及ぶ長いリハビリ生活が始まった。

 回復の兆しを見せていた2003年の秋季キャンプでも再び右肩を痛めた。診断結果はまたしても右肩の脱臼で、復帰は遠のく。これまでメスをいれて球速が戻った前例はほとんどなく、中里自身も当初は手術を拒否していたが、癖になった脱臼を解消するため決断を迫られた。当時の心境を雑誌のインタビューでこう話している。

「全ては復帰のため、前向きな思いで手術に踏み切りました。それでも本当に良くなるのか、この決断は正しいのかと毎日悩みましたよ。不安で不安でしかたがなかった。オペ室に運ばれている時も天井を見上げながら、『今、やめると言ったらどうなるかな』と考えたりしましたからね(笑)」(週刊ベースボール/2006年2月13日・20日号より)

「投手じゃなくなったら野球をやめる」

 度重なる怪我を加味して、中里の投手としての復帰については懐疑的な意見が目立った。1年目に一軍で3安打を放つなど圧倒的なセンスを見せていたこともあり、当時の新聞紙面にはいくどとなく「中里・打者転向か?」という文字が並んでいる。しかし、中里は投手として生きることに強いこだわりをみせた。

「投手じゃなくなったら野球をやめます。中日をクビになってもフリーターしながら他球団のテストを受けますよ」(プロ野球ai/2006年1月号より)

 手術後も電車で2時間かけて三重県の病院まで通い、時には1カ月泊まり込みでビジネスホテルから通院する缶詰め生活を過ごした。

「もう野球選手ではなく、陸上部か? というくらい走ってばかりでボールを投げられない日々が続いた。周囲からは何度も打者転向を薦められましたが、僕としては『投手でないなら野球をやめる』という強い気持ちでリハビリに向き合っていました。1年目のボールよりもよいボールを皆さんに見せたい。その想いが復帰への支えになっていました」

 懸命のリハビリの成果もあり、2004年秋にようやく投球が出来るほどに回復した。

 そして、徐々にファームで登板機会を増やし、翌2005年10月の広島戦で実に1469日ぶりに一軍のマウンドに返り咲いた。

 この日、中里は「無事でいてくれ」という願いも込めて右肩と右肘にグラブを当て、スタンドへ向けて深々と頭を下げた。2三振を含む3者凡退に抑え、球速表示は148キロを記録。中里の復帰を祝うように打線が奮起し、プロ初勝利のおまけもついてきた。首脳陣からの「来年投げられるということを見せて欲しい」という要望に、一発回答をして見せたのだ――。

落合博満も立浪和義も山本昌も絶賛

 中里の野球センスを表すエピソードは事欠かない。

 例えば山本昌は「野球センスが凄い選手として真っ先に名前が挙げるのが中里。脚も速く、バッティングも守備も投げるのも凄かった。センスが本当に凄かった」と明かしたことがある。

 実際にキャンプのフリーバッティングではレフト、センター、ライトと指示があった順番に軽々と柵越えを連発し、ライト方向では場外弾も放っていた。その半数は柵越えだったというから驚きだ。

 そんな中里をみて、立浪和義や仁村徹からは「お前は打者をやるべきだった」と今でも会う度に声をかけられるという。

 それでも、中里の素質を誰よりも評価していたのは落合博満監督(当時)だったのかもしれない。入団当時「28番」だった背番号が「70番」へと変更される際、実はこんな一幕があった。

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 後編では、落合監督と交わした知られざる約束のほか、二度の戦力外通告、印象に残っている投手を赤裸々に明かしている。

(後編に続く)

文=栗田シメイ

photograph by KYODO