5月6日、東京ドームで行われる“モンスター”井上尚弥vsルイス・ネリ戦。これまでNumberWebで公開された井上尚弥の記事の中で、特に人気の高かった記事を再公開します。今回は、「“2度敗れた”ドネアが語った井上尚弥の恐ろしさ」です。《初出:Number1053号2022年6月16日/肩書などはすべて当時》

敗戦も歓声…日本ファンが愛したドネア

 センセーショナルなノックアウトの余韻がアリーナを覆っているなか、失意の敗者は勝者を称えたあと、観客に向けて一礼し、静かにリングを降りようとしていた。

 気がつけば大歓声に混じり「ドネア!」と叫ぶ声が一人、また一人と増えていく。花道を引き返す敗者の背中に、いつのまにか大きな拍手とドネア・コールが浴びせられた。偉大なボクサーは日本を愛し、日本のファンも彼を愛していた。

 試合はわずか4分24秒で終わった。かつてラスベガスのリングを沸かせた39歳が容易に受け入れることのできない惨敗だ。試合後も取材に応じた第1戦とは異なり、この日、記者会見は開かれなかった。

再戦直後、控室に井上が訪れて…

 ドネアは2年7カ月ぶりに拳を交えたライバルから何を感じ取ったのか。井上の、そして自らの成長をどう受け止めたのか。それはこの2試合を見届けた者として、どうしても知りたいことだった。本人に取材を申し入れると、3日後に短いながらもコメントを寄せてくれた。

「いかんせん試合時間が短すぎた。井上が強くなっていたかどうかは分からない。彼の力を知る前に試合が終わってしまった。ただ、彼が素晴らしい選手なのは間違いない。戦えて光栄に思う」

 試合直後のドネアはとても記者会見ができるような状態ではなかった。肩を落とし、涙を流し、居合わせたメンバーも言葉を失った。沈黙を破ったのは、ほんの少し前に自らを打ちのめした勝者だった。井上が記者会見を終えて真っ直ぐにドネアの控室を訪れたのだ。3本のベルトをまとめ上げた王者は同行するスタッフを扉の外で待たせ、一人で部屋に入り、宿敵に握手を求めた。

 ドネアは井上にこう語りかけたという。

「キミの実力はだれもが認めている。すごいボクサーだ。このまま4団体を統一してほしい。スーパーバンタム級に上げてもキミならやれる」

 プライドをズタズタにされてなお紳士的に振る舞うドネア。29歳の王者はかつてあこがれもした大先輩の言葉をしっかりと受け止め、大きくうなずいた。

「ダウン寸前まで追い込んだ」あの日から再戦まで

 井上戦はドネアにとって特別な試合だった。2年7カ月前、圧倒的な不利を予想されながら、伝家の宝刀・左フックで“モンスター”を眼窩底骨折という大ピンチに陥れ、終盤にはダウン寸前に追い込むシーンまで作った。30代後半に入って「峠を越えた」とささやかれた“フィリピンの閃光”は、敗れながらも復活への確かな手応えをあの日、手にしたのだった。

 今年3月の再戦決定の記者会見では、次のようなビデオメッセージを寄せていた。

「あの試合が私を生き返らせてくれた。私は戻ってきたんだ。ハングリー精神がよみがえった。モチベーションも上がった。今度こそは井上を倒してみせる」

 ドネアは雪辱に燃えた。十分なトレーニングを積み、練りに練った「アメージングなプラン」を携えて試合の2週間以上前に来日。「同じドネアが来ると思ったら間違いだ」。景気のいいコメントをメディアに発する余裕も感じられた。

 来日後は3日間の隔離をへて、ジムワークを帝拳ジムで行い、親交の深いスーパーバンタム級世界ランカーの赤穂亮らと2度のスパーリングも行うなど元気な姿を見せていた。ただし、レジェンドに接した関係者からは次々とこんな声が聞こえてきた。

「あんなにナーバスになっているドネアを見たことがない」

 モンスターとの決戦を前にして平常心を保つのは百戦錬磨のベテランですら難しかった。そして迎えた試合当日、待っていたのは悪夢のような敗北だった。

「気づいたら突然、倒れていて…」

 やはり悔やまれるのは右ストレートをカウンターで食らった初回終了間際のダウンだろう。ドネアは試合後、SNSで行ったライブ配信で次のように発信している。

「気づいたら突然、倒れていて、レフェリーがカウントを数えていた。立ち上がってコーナーを見たらレイ(レイチェル夫人=トレーナーも兼務)が『拳を上げて!』と叫んでいたんだ。それで自分がダウンしたことに初めて気がついた。あれはこれまで食らった中で最もハードなパンチだった」

ドネアが残した言葉

 日付をまたいだころ、チームのメンバーはさいたま市内のホテルのスイートルームで骨を休めていた。前王者と夫人の会話は自ずと「これからどうするのか」というテーマにたどりつく。11月で不惑を迎える年齢を無視することはできない。そしてあの負け方だ。ここまでぐうの音も出ない敗北は、ドネアにとって初めてだった。

 それでも、本人は少なくともこの場では引退という言葉を口にしなかった。ただし、こう付け加えたという。

「レイが私のトレーニングを見て、身が入っていないとか、怠けていると感じたら、続けることはできないと思う」

 ドネアはこの晩、一睡もせずに朝を迎えた。寝ないのはいつもの試合後と同じだったが、これほど悶々とした夜を過ごしたことはなかったろう。

 取材に対し、ドネアが寄せてくれたコメントが実はもう一つある。それは愛する日本のファンに宛てたものだ。

「日本は大好きだ。いつもサポートしてくれてありがとう。皆さんに感謝しています」

 シンプルで短いメッセージから失意の大きさが伝わってきた。

文=渋谷淳

photograph by Naoki Fukuda