今年4月、「第64代横綱」として貴乃花や若乃花の“若貴”らとともに平成初期の相撲ブームを牽引した曙太郎さんが亡くなった。曙さんと同じく1988年(昭和63年)3月場所に初土俵を踏んだ力士たちは、若貴をはじめ後の関取経験者も多く「花の六三組」と呼ばれた。そんな黄金世代の同期力士が振り返る、曙さんとのデビュー戦の記憶とは。<前後編の前編/後編を読む>

 外国出身力士として、史上初めて横綱となった曙太郎さんが今年4月、心不全のため亡くなった。54歳の若さだった。

 ハワイ出身の曙が初土俵を踏んだのは1988(昭和63)年春。同郷の先輩である東関親方(元関脇・高見山)にスカウトされ、この年2月に来日。3月に前相撲の土俵に上がった。当時18歳だった。

 この年の春場所は、国民的な注目を集めていた。

「角界のプリンス」と呼ばれた藤島親方(元大関・貴ノ花)の息子、若花田と貴花田の「若貴兄弟」が同時デビューを果たしたからである。

若貴、曙、魁皇…「六三組」は黄金世代

 後に「花の六三組」と呼ばれることになる「昭和63年春初土俵組」は総勢95名。第2次ベビーブーム世代がちょうど15〜17歳の年齢にさしかかり、相撲部屋に入門する新弟子の数は年々増加。バブル全盛の世相とも相まって角界は空前の盛り上がりを見せ、「若貴フィーバー」は社会現象にもなった。

 相撲界の歴史に特筆される「六三組」の輝かしい活躍は、伝説的に語られている。同期から横綱3人(曙、若乃花、貴乃花)、大関1人(魁皇)、幕内2人(和歌乃山、力櫻)を輩出し、関取(十両以上)昇進者は実に11人。輝かしい足跡を残したスター集団の物語はすべて、この昭和最後の春場所から始まったのである。

 あれから36年の月日が流れた。90年代の大相撲ブームを華やかに彩った「六三組」だが、いまも相撲協会に残っている者はほとんどいない。

 亡き曙のライバルとして激闘を繰り広げた若貴兄弟はすでに角界を去り、親方として後進の育成にあたっているのは魁皇の浅香山親方ただ1人である。

「放つ光が強ければ、それだけ影も濃くなるのでしょう」

 そう語るのは「六三組」の1人で、押尾川部屋の力士(元幕下・若隆盛)だった古市満朝氏(大阪府出身、51歳)である。

 古市氏は現役引退後の2010年、角界を揺るがせた「大相撲野球賭博事件」の主犯格として、のちに有罪判決を受けた。

「華やかな一面が強調される“六三組”ですが、自分も含め、関取になれなかった多くの力士たちの人生はほとんど知られていないと思います」(古市氏、以下同)

「若貴世代の落第生」と自称する古市氏が、「花の六三組」の光と影を語った。

 父が経営する大阪府の相撲道場で、幼少期から相撲の稽古に明け暮れた古市氏は、小中学生の相撲大会で常に上位を争う存在だった。だが、古市氏はプロ入り前「こいつには勝てない」と思った相手が3人いたという。

「まず東京の花田光司(元横綱・貴乃花)、そして和歌山の西崎洋(元小結・和歌乃山)、花田と同じ東京の加藤耕市(2003年アマ横綱)です。加藤はプロ入りしませんでしたが、彼は中学時代の1987年、花田に勝って中学横綱に輝いている。立合いで岩のような加藤の体にぶつかると、背筋に電気が走るような痺れを感じました」

 貴乃花は中学時代、公式の相撲大会で40勝1敗の成績をおさめているが、この時代に唯一、土をつけたのが加藤だった。大器と目されていた加藤であったが、高校卒業後は日体大に進学し、プロ入りはせず教職の道を選んでいる。

「中学卒業後、武蔵川部屋に入門した西崎とは部屋(古市氏は押尾川部屋)も近かったため、悪友になりました。入門から間もない時期、素行の悪さでは横綱級だった僕らは、未成年ながら吉原の風俗街に繰り出したこともありました(笑)」

 幕内で活躍した和歌乃山は現役引退後の2010年、相撲協会を退職している。

 また同期で鳴戸部屋に入門した力櫻(井上猛)は前頭4枚目まで昇進したものの、親方(元横綱・隆の里)との確執から24歳のとき突然、引退を宣言。その後、プロレスに転向し「力皇」のリングネームで活躍した。現在は故郷の奈良県でラーメン店を営んでいる。

プロ初日、デビュー戦の相手は…あの曙!

 前相撲で一番出世を果たした古市氏の実質デビュー戦は1988年5月場所。記念すべきプロ初日の相手は序ノ口19枚目、ハワイ出身の曙だった。

「いま思えばとんでもない見当違いでしたが、当時は軽く勝てると思っていました。新聞で“小錦の再来”などと騒がれているのは知っていましたが、いくらデカくても基礎がなければ勝てないのが相撲。こっちは中学時代から押尾川部屋で稽古を重ね、すでに序二段の力士にも勝てるようになっていましたから『素人外人に負けるはずがないやろう』と……」

 ところが、実際に土俵に上がってみると、身長2メートル4センチの「素人」は想像以上にデカい。立合い、頭から低く当たった古市氏だったが、1発目の「バーン」で上体が浮き棒立ちに。2発目で土俵際、3発目で土俵下に吹っ飛ばされた。

「バケモノでしたね。こんな奴がおるんかと」

序二段で2度目の対戦も…「もろ手1発で土俵下まで」

 衝撃的な敗北を喫した古市氏だったが、その後気を取り直して6連勝。7月場所では一気に序二段96枚目まで上がったが、何とこの場所でも一番相撲で再び曙と対戦することになる。

「5月場所、曙も序ノ口で6勝1敗だったので、まったく同じ分だけ昇進した結果、また初日に当てられた。今度は3発ではなく、もろ手1発で土俵下まで持って行かれた。“こいつは間違いなく小錦以上や”と確信しましたね」

 曙は初土俵からわずか2年で十両に昇進し、さらにその3年後には外国出身力士として初めて横綱となった。1993年には3連覇を飾るなど、強力な突き押しを武器に11度の優勝を記録したが、現役引退から間もなく格闘家へ転身。

 2003年大晦日、ボブ・サップとのデビュー戦は『紅白歌合戦』を超える視聴率を記録した。

 曙は2017年、プロレスの試合後に緊急搬送され、その後は長らく闘病生活を続けていた。時折、格闘技やプロレス界の仲間たちが見舞いに訪れていたが、記憶障害と闘い続けながらも、相撲時代の記憶は不思議とはっきりしていたという。

「六三組が相撲教習所に通っていた時代、いつなんどきでも全力の稽古で手を抜かない若貴兄弟は、あまりの激しさ、厳しさに同期から敬遠されていたほどでした。その点、外国人の曙は要領よく手を抜いていて、その憎めない人間味が魅力だった。プロ初勝利の相手として、彼は僕のことをよく覚えていてくれました。若すぎる死は残念でなりません」

 一方で、逸材ぞろいだった六三組もデビューから3年後には、同期95人のうち半数近い45人が角界を去っている。これも勝負の世界の厳しい現実だった。では、いまだ古市氏の記憶に残る同期力士たちのエピソードはどんなものだったのだろうか?

<次回へつづく>

文=欠端大林

photograph by JIJI PRESS