世界スーパーバンタム級4団体統一王者・井上尚弥が、挑戦者ルイス・ネリを6回TKOでマットに沈め、防衛に成功した。絶対王者・井上のまさかの初ダウンという“波乱”から始まった注目の一戦、元WBA世界スーパーフライ級王者の飯田覚士氏はどう見たのか。全2回にわたって徹底解説した後編では、圧巻のKO劇にいたる勝負の分岐点を探る。<全2回の後編/前編へ>

井上尚弥の“挑発”に隠された勝負のポイント

 東京ドームのボルテージがグッと引き上がった。

 4ラウンド途中、ルイス・ネリのワンツーを涼しくかわした井上尚弥が不意に足を止めた。

 当ててみろよとばかりに右拳で自分のアゴをポンポンと軽く叩いてみせる。続いて左拳で「来いよ」のポーズ。その直後に力を込めた右のオーバーハンドから左ボディーを放ち、ガードを下げてネリを再び挑発した。

 ここに隠された勝負のポイントがあったと飯田覚士は分析する。

「まず理由の1つめとしては、もう動きを読めたという意思表示に見えました。ダウンを奪い返した後の3ラウンドで尚弥選手は試合を支配したとまではいかないとしても優位に立った。ワンツーでのけぞらし、半歩遠い距離でネリ選手のパンチもバックステップじゃなく上体だけで封じて相手の動きや軌道もほぼつかめたはず。ネリ選手は表情を変えないためにダメージがあるかどうか分かりにくいなかでも実際に戦っている尚弥選手からすれば自分のパンチが効き始めているとも感じたのではないでしょうか。だから“もうパンチはもらわないよ”と。ただ、僕はこのシーンを目にして、正直言ってびっくりしました。2つめの理由がそこにあります」

挑発はネリを置いていく「スパートの合図」?

 挑発する振る舞いは、対戦相手へのメッセージもあれば、会場へのパフォーマンスの意味合いというのもあるだろう。ネリに対してどちらも含まれているとしても、肝としては綱を引き合う駆け引きの一環だったと飯田は読むのだ。

「尚弥選手は(2022年12月のポール・)バトラー戦でも同じように挑発っぽくしましたけど、それはあまりに前に出てこなかったため。だからまったく意味合いが違う。ネリ選手に対して優位に立っているとはいえ、弱らせきってもいないし、危険なパンチだってまだある。挑発が相手を奮い立たせることにもなりかねないためリスクはあるわけです。

 ここには深い意味があったのではないか、と。つばぜり合いの最中、自分が頭ひとつ完全に抜け出すために敢えて強気な自分を出そうとしたんじゃないかと僕は考えています。陸上の長距離選手が、勝負するときにスパートを掛けていくじゃないですか。あの挑発はネリを置いていくスパートの合図だと感じたんです」

 勢いあまっての挑発などではない。

 決着は時間の問題なんだとネリを追い込んでいく。それまで比重としては大きくなかったボディーへの打ち込みも、精神的な圧力を伴うことになる。

「やっぱり左ボディーを打つときがネリ選手としては左フックを合わせやすい。でもそうさせないのは、尚弥選手とすれば打ってこないタイミングも含めてつかんだんでしょうね。パンチがきてもかわせる安全圏内も分かっているから、相手のパンチをもらうことなく自分のパンチを当てていける。それを明確に示したラウンドにもなりました。リスク承知で挑発しつつ、圧倒してネリ選手を置き去りにしていくような感覚が僕にはありました」

ネリは“玉砕覚悟”に切り替えた

 実際、次の5ラウンドはネリが前への出方を強めている。このまま引き離されてしまえば試合が終わってしまうという危機感がそうさせたに違いない。

「パンチが効いてくると普通なら弱っていくなかで、ネリ選手は“やるかやられるか”くらいの玉砕覚悟の戦い方に切り替えました。待ちのボクシングにするなどダメージを回復させる方法がなかったわけではないと思うんです。でも怖気づかず、前に出てきたネリ選手の姿を見てこの一戦に懸ける思いというものが本物だったことは伝わってきました」

終わってみれば「尚弥選手は本当に凄い」

 井上の術中にネリがハマっていく。確実にフィニッシュへの足音が近づいていた。

 5ラウンドのラスト30秒、ロープ際で再び左フックを顔面に叩き込んで2度目のダウンを奪うと6ラウンドには的確なパンチでロープに追い詰め、左から右アッパー、右フックのコンビネーションでがら空きの顔面にドンピシャで強打を見舞い、マウスピースを吐き出させて決着をつけた。

「左の打ち終わりをずっと狙っていましたよね。おそらくこのパターンも練習でやってきたとおり。倒されて、倒してという展開でしたけど、終わってみれば“尚弥選手は本当に凄い”といつもどおりうならされた試合。彼のベストバウトではないとは思いますが、劇的な試合になったことで世間的なインパクトとしてはとてつもなく大きかった。日本ボクシング界の次につながるどころか大きな扉を開いてくれたなって感じました」

フェザー級も近い?

 次戦は9月を予定。試合後のリングにも上がった18戦全勝でWBO、IBF1位にランクされるサム・グッドマンとの防衛戦でまず間違いないだろう。

 スーパーバンタム級で今回が3試合目。この階級も通過点に過ぎなくなってきたと、飯田は言う。

「タパレス戦の評論ではリカバリー(前日計量後の回復)でちょっと水分が多かったのかもしれないと言った記憶があります。今回はそういう印象もないし、完璧なコンディションだったのではないでしょうか。体自体大きく見え、この階級でもパンチ力が通用することは十二分に証明しましたし、奇しくもダウンしたことで耐久性があることも証明できました。ネリ選手にこういう勝ち方をして、スーパーバンタム級にいるのも長くないなって正直思いましたね。フェザー級が近くなっている、と。31歳になって今がピークとみる向きもありますが、まだまだそうじゃないって思わせてくれる試合内容でもありました。いや、本当にモンスターですよ(笑)」

<前編から続く>

文=二宮寿朗

photograph by Hiroaki Yamaguchi