5月6日、ルイス・ネリを衝撃的なTKOで沈めた井上尚弥。まさかのダウンを奪われながらも完璧なリカバリーで窮地を脱した4団体統一王者は、規格外の破壊力を東京ドームの大観衆に見せつけた。その決定的瞬間をリングサイドで撮影したカメラマンが語る、“怪物の覚醒”とは。全米ボクシング記者協会の最優秀写真賞を4度受賞し、“パンチを予見する男”と称される福田直樹氏に、歴史的な一戦を振り返ってもらった。

試合開始直前、リングサイドで感じた“異変”

 今回は試合開始前から、井上尚弥選手のかすかな“異変”をなんとなく感じていました。具体的な違いとしては、リングインしたあと、いつもと比べてウォームアップの動きが大きかったこと。何度もステップを踏んで上体を揺らしたり、大きく腕を回したり……。本人が試合後に語っていたように、東京ドームという舞台で「派手なものを見せたい」とすこし気負っていた部分があったのかもしれません。

 対するルイス・ネリ選手は、想定よりもいいコンディションだったと思います。試合当日は500gアンダーの影響(計量を54.8kgでパス)をほとんど感じさせませんでした。特に左フックは「もらったら危ないな」と思わせる迫力がありましたね。立ち上がりは井上選手がやや大振りだったこともあって、ネリ選手もかなり前に出てきた。戦前のイメージ通り、「やっぱり攻めてくるんだな」と思って見ていました。

 井上選手はネリ対策として左右のショートを相当練習していたように思います。それを活かすために、“撒き餌”として大きなスイングの右フックを最初に出したのではないでしょうか。たしかに力みや気負いもあったかもしれませんが、映像を見返すと、1ラウンドはあえて“大きなパンチ”を見せていたのではないか、という印象を受けました。

「初めてのダウンとは思えない」井上尚弥の冷静さ

 井上選手のダウンシーンは、本命の左のショートアッパーから右につなげようとした瞬間に、ネリ選手の左フックがうまくヒットした形でしたね。公開練習でも感じたことですが、ネリ選手の外からのパンチは軌道が独特で、かつ“微妙に遅い”のでタイミングも取りにくい。それを試合の初っ端にもらったこともあって、ダウンに至ってしまった。

 後方に弾け飛ぶような倒れ方だったので、観客の皆さんも「嘘でしょ……」と信じられない気持ちだったと思います。カメラマンとしても、もちろん驚きはありました。マイク・タイソンvs.ジェームス・ダグラスのような番狂わせになるかどうかは別として、こういった大きいイベントではサプライズが起きるものなのか、と……。

 とはいえ、そこからの井上選手の冷静さは初めてのダウンとは思えないものでした。しゃがんだ体勢のままできるかぎりダメージを回復し、しっかりと時間を使って立ち上がった。カウント中、カメラを外して肉眼で様子を確認しましたが、状況をすぐに理解して、次にどうすべきかわかっているような表情でした。

 たまたまタイミングが合ってしまったダウンとはいえ、いわゆるフラッシュダウンではなかった。ダメージはあったはずです。実際に、再開後の数十秒は回復につとめていましたから。しかしそこからの井上選手の技術がすごかった。ロープに詰められたのは1度目のドネア戦以来でしたが、猛烈な勢いで打ってくる相手のパンチをほぼすべて外して、的確に右のショートアッパーを合わせていた。あの反撃でネリ選手も気勢を削がれたのでは。もちろん「ここで仕留めたい」という気持ちはあったと思いますが、次の一発が当たりませんでしたね。

ダウンを喫したことで急激にネリを“学習”した

 僕の撮影ポジションは井上選手のコーナーの真下でした。1ラウンドをうまく乗り切ったあとのインターバル中に、井上真吾トレーナーが「ここでリセット」としきりに伝えていたのを覚えています。それを受けて井上選手も気合を入れ直し、大きな声を出して2ラウンドに臨んでいました。

 2ラウンドからはジャブ、ストレートを中心とした本来のスタイルを取り戻しましたね。井上選手はいつも試合中に相手の情報をインプットするという話ですが、ダウンを喫したことで急激に“学習”が進んだのではないでしょうか。ストレート系のパンチで対応されて、ネリ選手もなかなか攻められなくなっていった。

 そして、やはりハンドスピードが圧倒的でした。1ラウンドはネリ選手のパンチも「怖いな」と感じていたんですが、スイッチの入った井上選手のシャープなパンチは切れ味がまったく違う。衝撃音もネリ選手のそれとは別格でした。

 ダウンを奪い返した場面は、まさに“想定通り”という印象です。ネリ選手の左が流れたところに、ショートの左フック。ラウンドの途中からすでに井上選手のペースになっていましたが、あのダウンでそれが決定的になりましたね。

井上尚弥の“覚醒”「ちょっと怖いくらいでした」

 3ラウンド以降は、結果的に陣営が描いていたファイトプラン通りになったように思います。加えて、いつも以上に井上選手のアドレナリンが出ているのを感じました。マンガ的な表現ですが、試合のなかでさらにもう一段、覚醒したような……。ラウンドが進むごとに「面白くなってきた!」と気分が乗っていく――そんな印象を受けました。今まで見たことがないくらい、本当にイキイキしていましたから。トランス状態に入った感じで、撮っていてちょっと怖いくらいでした。

 4ラウンドの挑発の場面も、ポール・バトラー戦の「手を出してこい」といった挑発とはまったく違う。完全に自分のゾーンに入っていましたね。おそらく、東京ドームという舞台も影響していたと思います。二段階、三段階とすこし遅れて、どよめきや歓声の波がやってくる。その声を感じながら、どんどんボルテージを高めていったのではないでしょうか。

 そして5ラウンド、ふたたびコンパクトな左フックでダウンを奪った。スローで映像を確認したら“超ショート”な、まるでルイス・ラモン・カンパスがフェリックス・トリニダードをダウンさせた「15cmの左フック」を想起するような一撃でした。もちろん繰り返し練習してきたものだと思いますが、普通はどれだけ練習してもあんなパンチを打つのは難しいでしょう。

 あの一撃で終わっていても、まったくおかしくなかった。立ち上がったネリ選手もタフだったと思います。もう少しディフェンスが甘い印象でしたが、想像よりもブロックが機能していて、本人も陣営も「井上は危険だ」と理解して対策を練ってきたのが伝わってきました。

「あの右で、あんな倒れ方になってしまうのか…」

 6ラウンド、ガードの上からネリ選手にあえて打たせた場面は、井上選手の余裕が出ていましたね。東京ドームの大観衆に楽しんでもらおう、魅せるボクシングをしよう、と。そして直後の攻勢で一気に仕留めにいった。「これは終わるかも」と直感してカメラを構えました。

 フィニッシュの右アッパーからの右ショート(井上自身は「ストレートと右フックの中間」と表現)はすさまじかった。ああいった右、右のダブルで倒しきるというのは、あまり見たことがありません。それぞれが独立したパンチのようで、普通のコンビネーションよりつなぎが速い。本当に信じられない速さでした。詰めにいくのがわかっていたので連写しましたが、こちらとしては「アングルを変えて次の攻撃か」という読みで、右アッパーのあとに右ショートがくるとは思いませんでした。

 あらためて感嘆しましたね。あの右で、あんな倒れ方になってしまうのか、と。5ラウンドのダウンもそうでしたが、普通ならパンチが生きない距離です。飛び込んでのロングや中間距離のパンチが強いのは当然として、井上選手はショートもすごい。ジムでのミット打ちを見ていても、打ち出すときのイメージよりもインパクトが圧倒的に強いんです。卓越した技術に加えて、下半身や背中の強さ、全身の連動など、すべてにおいて鍛え上げられているからこそのパンチだと思います。

井上尚弥の“底の深さ”はまだまだ計り知れない

 今回の試合で感じたのは、井上選手の“底”はこちらが思っている以上に深いんだな、ということ。どれだけの深みがあるのか、まだまだ計り知れません。今までファンが考えていた強さとは、また違うものを見せてくれましたからね。

 1ラウンドのダウンがあるので、パウンド・フォー・パウンドの議論がどうなるのかはわかりません(本取材後、『リングマガジン』のPFPランキングで1位に再浮上)。ただ、井上選手の絶対的なすごみはむしろ増した気さえします。「なにかの拍子に強烈な一撃をもらわないと負けない」と言われていましたが、実際にパンチをもらってダウンしながらも主導権を握り返し、最後は衝撃的なKOで終わらせている。ごく率直に、これがスーパースターなんだな、と感じました。

 敗れたネリ選手も、いいものを見せてくれました。「ネリでは勝負にならない」という声や、過去の失態からの拒否反応もありましたが、本当によく戦ったと思います。身体能力が高くアグレッシブで、大きなパンチに異なる種類のパンチを織り交ぜながら、それを打ち続けられる。「真面目に取り組めば、これだけのポテンシャルがある」と評価も上がったんじゃないでしょうか。勧善懲悪的な構図も含めて、東京ドームという大舞台で拳を交えた相手がルイス・ネリだったからこそ、こうして歴史に残る試合になったのだと思います。

(構成/曹宇鉉)

文=福田直樹

photograph by Naoki Fukuda