日本国内だけでなく、アントニオ猪木は海外でも数々の名勝負を繰り広げた。その中でもファンにとりわけショックを与えたのが、1978年のローラン・ボック戦での敗北である。“シュツットガルトの惨劇”として語り継がれる伝説の一戦とは何だったのか? 同行した当時の新日本プロレス営業本部長・新間寿氏の証言を元に解き明かす。『G SPIRITS選集 第一巻−昭和・新日本篇』(G SPIRITS BOOK/辰巳出版)からの抜粋でお届けする。(全3回の最終回)

1978年11月に欧州シリーズをスタートした猪木は、五輪で活躍したレスリングの猛者ウィルフレッド・ディートリッヒ、対戦相手のドタキャンによって当日決定したウィリエム・ルスカらと激闘を繰り広げる。しかしこの時すでに16連戦。ボック戦の前に、猪木の身体は満身創痍だった。

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 そして、いよいよ“シュツットガルトの惨劇”と呼ばれる一戦を迎える。市販の映像ソフトにも収録されているのでご覧になった読者も多いと思うが、4分10ラウンドで行われたこの試合には技をやりとりするという通常のプロレスのような“攻防”がほとんどなかった。

ボックは無表情で猪木にエルボーを連発

 ボックは一切、猪木の技を受けようとせず、パワーに任せて強引に低空スープレックスで叩きつけ、スティッフなエルボースマッシュを連発。ボックを称える観客のチャントが会場全体を包み込む中、無表情のまま猪木に対してシビアな攻撃を繰り返した。

 一方、猪木は投げを警戒してグラウンドに持ち込み、首や足を狙ったが攻めきれず。さらに隙を衝いてドロップキックを放ったり、流れを変えるためにフロントスープレックス気味にボックを場外へ落とすなど陽動作戦に出たが、ロープブレイクに従わなかったため2度にわたってイエローカードを提示され、最終的に判定負けを喫してしまう。

「実際、ボロボロ。右肩をぶっ壊され…」

「通訳のケン田島さんが日本側代表として審判になったんだよ。田島さんだけは1ポイントか2ポイント差で猪木さんの勝ちにしたんだけど、あとの2人はボックの勝ちにしていた。私は第三者的に見ていたけど、あれは確かにボックの勝ちですよ。ボックの方が7割攻めていて、猪木さんは3割ぐらいしか攻められなかった。あの時点で猪木さんは右手がほとんど使えないような状態で、完璧といえるコンディションじゃなかったしね。実際、ボロボロでしたよ。2戦目で右肩をぶっ壊されたけど、不撓不屈の精神で乗り切ったんだから。どんなにリング外で嫌なことがあったりしてもリングの中では誠心誠意、自分の神経が及ぶ限りの戦いをしたよね」

 試合を終えた猪木は控室で「4分6分ぐらいだろ? でも、それでいいんだ。ボック、良かったろ?」と新間氏に語ったそうだが、後にボックも「新間、ミスター・イノキはヨーロッパにセンセーションを起こしてくれた。プロレスはヘーシンクが言ったようにショーだとか八百長だと言われていたけど、彼と戦うことによってプロレスは真剣にファイトするスポーツだと我々の国では認められた」と感謝していたという。“惨劇”と呼ばれた表面上の戦いとは別に、この試合を通じて猪木とボックの間にはレスラー同士にしか理解できない心の繋がりが生まれたようだ。

木村健悟を秒殺…ボック衝撃の日本デビュー

 この欧州遠征は猪木の身体に大きなダメージを残した反面、欧州マットとのパイプが強固になり、新日本プロレスにとっては多大なプラスをもたらした。

 ボックとこのツアーを共催したプロモーターのポール・バーガーはIWGP実行委員となり、オットー・ワンツは第1回IWGPリーグ戦に欧州代表として出場。ワンツが主宰するCWAは新日本のヤングライオンたちにとって武者修行の場となり、坂口征二や藤波辰爾がビッグマッチに招聘されるなど後々まで新日本と深い関わりを持った。

 そして、ボックは81年7月に初来日し、初戦で木村健悟をダブルアームスープレックスで秒殺して衝撃の日本デビューを果たす。さらに長州力を相手に3分半で完勝するなど実力者ぶりを発揮。2度目の来日ではラッシャー木村やタイガー戸口(キム・ドク)にも圧勝し、タッグマッチながら藤波もKOした。

「試合後、長州が“俺は仕掛けてないのに、やってきた!”と怒っていたよ。だったら、自分もやればいいのに、たぶん長州も萎縮していたんだと思う」

心臓発作、脱税で服役…ボックの“その後”

 猪木とのシングル再戦は、翌82年の元日興行で実現。この試合は5分10ラウンドで行われたが、3ラウンドにエプロンからロープ越しにスリーパーホールドを仕掛けたボックがレフェリーの制止を振り切って反則負けに。結果的に、これがボックにとって最後の来日になってしまった。

 実はこの時、ボックは持病の左足痛を悪化させていてベストコンディションではなかったというが、その後も心臓発作や血管障害に苦しみ、脱税により服役も経験。そのままマット界からフェードアウトしている。

 最後に新間氏は熱く語る。

「韓国でパク・ソンナンと戦い、パキスタンでペールワンと戦い、西ドイツでボックと戦った。いつでも、どこでも、誰とでも戦うという姿勢を貫いてきたのが新日本プロレスであり、それを率いていたのがアントニオ猪木ですよ。だから今、アントニオ猪木という人間を一番必要としているのは誰かと言ったら、我々、プロレスを愛する人間全員なんだ。コミッショナーでも何でもいいから、あの人に“俺がプロレス界の礎を創るんだ”という精神を今こそ持ってほしいね!」―― 。

《第1回、第2回も公開中です》

文=小佐野景浩

photograph by 東京スポーツ新聞社