元日本代表MF長谷部誠が、偉大なサッカー選手としてのキャリアを終えた。ブンデスリーガで17シーズンもの長期間を一線級で戦い、ドイツ人からも畏敬の念を集める40歳が歩んだ足跡とは――。00年代後半からドイツで取材を続けた日本人ライターが、強く印象に残った思い出を所属クラブ時代ごとに綴る。(NumberWeb引退記念ノンフィクション/第2回も)

「俺はわざわざドイツ語で話したのに、英語を話しているかのような字幕がつけられてしまって。アレはひどいよ(笑)」

 長谷部誠がヤンチャな一面をのぞかせながら後に振り返ったのが、2008年1月のボルフスブルクでの入団会見での一コマだ。そこでは長谷部は基本的に日本語で話し、それを同席した通訳にドイツ語へと訳してもらった。ただ、自己紹介くらいはドイツ語でと考え、こう切り出したのだ。

「Mein Name ist Makoto Hasebe」

 これをカタカナ表記にすると「マイン・ナーメ・イスト……」となり、発音も英語の「My name is……」に似ている。映像を紹介したTV局は、英語での自己紹介と聞き間違えてしまったようだ。

ネット環境が半年間ない中で過ごした23歳時

 23歳時の“ほのぼのエピソード”とともに始まるボルフスブルク時代はしかし、戦いの連続だった。

 このときボルフスブルクを率いていたのは、「鬼軍曹」の異名で知られるマガト監督だった。

 選手たちを徹底的に追い込む指導スタイルは有名で、シーズン中でも1日に2回の練習を組むのは当たり前。選手たちが遊ばないように、練習のスケジュールを前日に知らせる。選手たちは気を休められず、学生時代以上のハードな練習を強いられた。長谷部は半年だけの在籍だった大久保嘉人と、過酷な日々を乗り越えるために励ましあうこともあった。

 なお、2009年夏に大久保が日本へ戻ると、彼が残してくれた新品同様の家具が揃う街中への家に引っ越している。それまでの長谷部の自宅は、人口12万人しかいないボルフスブルクの郊外にある、「田舎」という表現がピッタリのエリアにあった。“約束を守らない“ことで知られるドイツの悪名高い大手通信会社が、いくら待てどもインターネットの回線工事に来てくれなくて、渡独から最初の半年間はネット環境なしで過ごした。

 どうしてもネット環境が必要になると、大家に借りに行っていたという。スマホも普及していない時代のことである。料理レシピを簡単に検索できない時代だったからこそ、お湯をわかそうとして、鍋やヤカンではなく、フライパンに水をためて火にかけたという逸話も残している。

あの戦力外は「軽く話せるような時間では…」

 そんなボルフスブルク時代の長谷部について多くの人の記憶に残っているのは、彼のキャリアには似つかわしくない、「戦力外事件」だろう。

「3カ月くらいベンチにすら入れなくて。その中で、色々考えたり、感じたことがあったから。軽く話せるような時間ではないんだよ、俺にとってのあの3カ月は」

 後にそう振り返ったのは、当時28歳だった2012-13シーズンのこと。長谷部は、10月25日にマガト監督(*ボルフスブルクでは2度目の指揮をとっていた時期)が解任されるまで、試合出場はおろかベンチにすら入れてもらえなかった。

 GM職も兼ねた全権監督のマガトが明言したわけではないが、開幕前の長谷部の意思表示が理由だったと見て間違いないだろう。この夏、長谷部はプレミアリーグへと舞台を移そうとしていた。ロンドンへ行く飛行機のチケットもすでに手配されていて、移籍の最後のステップを残すばかりの状況だった。

 しかし、先方の「少し待ってほしい」という突然のメッセージとともに移籍は最終段階で凍結された。8月の終わり、ロンドン行の飛行機もキャンセルし、スーツケースにまとめていた荷物もボルフスブルクの自宅で解くしかなかった。

受け入れるしかないと考えている自分もいるから

 やむなくボルフスブルクへの残留が決まったのだが、そこからは地獄の日々が待っていた。

 全権監督のマガトはもちろん、そこまでの経緯を知っていた。

 一度移籍を決断した選手はもはや戦力ではない、という判断だったのだろう。一応、トップチームの練習には参加させてもらえたが、スタジアムのすぐそばにある森を黙々と走るだけのこともあった。

 なお、このときのチームは開幕から低空飛行を続けていた。それなのに、一向に声はかからない。そんな状況に苦しさを覚えながらも、気持ちのベクトルを他人(すなわち監督)ではなく、自分に向けていたのは長谷部の強さだった。

「チームの調子が良くて、メンバーを代えられないような状況で(試合に)出られないんだったら、わかるけど。チームがこれだけ勝てなくて、その中でも使われない。練習でいくら『グート!』って言われても、使ってもらえないわけだから難しいよ。

 でも移籍の話をしているときに、万が一、ボルフスブルクに残ることになったときのこともある程度は考えていたからね。それくらいの覚悟をもって、夏に話をしたわけだから。自分の中で後悔はない。この状況に決して納得しているわけではないけど、受け入れるしかないと考えている自分もいるから」

「これだけ走りましたよ」と言ってもマガトは非情だった

 もちろん、長谷部は沈黙を貫いていたわけではない。

 マガトと顔を合わせるタイミングで「そんなことでは屈しないぞ」と主張するかのように声をかけることもあった。

「『今日はこれだけ走りましたよ』とわざわざ監督に報告したんだけど、監督は普通に『もっと走れるぞ』って返してきたからね……」

 気持ちを切らさない長谷部に驚くのではなく、表情すら変えることなく、非情な言葉を返すのがマガトだった。

仲間たちから「マコトを使うべきだ!」

 ただ、10月にリーグ戦の低迷の責任を問われてマガトが解任されると、事態は一転する。

「マコトを使うべきだ!」

(*ボルフスブルク時代の愛称は「マコト」だった。2013年ニュルンベルクに移籍したとき、当時所属していた清武弘嗣が「ハセさん」と呼んでいたことから、それ以降に出会った選手や監督の多くからは「ハセ」と呼ばれるようになった)

 当時の主力である元ブラジル代表のジエゴらが、マガト監督の後を引き継いだケストナー暫定監督に長谷部の起用を進言した。

「マコトはチームの苦しい流れを変えられる選手ですよ! そのための準備をしていることを、練習を一緒にやってきた僕たちは知っていますから」

 そして、2日後のリーグ戦にいきなり右サイドのMFとして先発で起用されると、そこから再びチームに欠かせない選手としての働きを見せていった。

 今ではパワハラとして訴えられそうなマガト監督の仕打ちと、それに心を折られることなく、コンディションを整えていた長谷部の復活劇。彼の心の強さや、常に試合に出られる準備をしているプロ意識を象徴するエピソードだから、ボルフスブルク時代の長谷部を振り返るとき、この話を思い浮かべる人は多いだろう。

ブンデス優勝、急造GK以上の“タフな戦い”とは

 もちろん、奥寺康彦以来31年ぶりに、日本人として2人目となるブンデスリーガ優勝を果たした2009年の偉業もまた色あせない。

 あのときは、終盤にさしかかる3月末にひざの手術をして戦線離脱を余儀なくされていた。それでも優勝争いの最終盤、チームが大敗して2位転落の危機に立たされた残り3試合の状況でスタメンに抜擢された。復帰初戦でルーズボールの競り合いに頭から突っ込んで流血しながらもプレーを続け、鬼軍曹の指揮官をうならせると、次の試合では2アシストを挙げた。

 そして、優勝を決める最終節では先制点につながる強烈なシュートを放った。先制点の後、自分にだけしかわからないタイミングでのガッツポーズには、彼の想いが詰まっていた。

 あるいは、珍エピソードとして、2011年9月のホッフェンハイムとの試合で味方GKが退場になったために、長谷部が急造のGKを務めた姿を思い浮かべる人もいるかもしれない。

 ただ、ボルフスブルク時代の長きにわたる本当の戦いは、他のところにあったのではないだろうか。

 長谷部は、2つのレッテルと戦っていた――。

<つづく>

文=ミムラユウスケ

photograph by Boris Streubel/Getty Images