ドイツ在住の中野吉之伴氏による、5月18日に行われた長谷部誠のラストマッチリポート。記者会見後、長谷部が日本人記者のために時間を作り、語られたのは――。(全2回の第2回/前回はこちら)

一番印象深い試合

 長谷部はリラックスした雰囲気で今の心境をいろいろと言葉にしてくれる。この日のセレモニーで大型モニターにはフランクフルトでのキャリアが映し出された。セバスティアン・ローデと2人で話しながら見ていた長谷部だが、どの瞬間が特に印象に残っているかを尋ねてみた。

「一番印象深いのはポカール(カップ戦)ですかね。ドイツカップ決勝でバイエルン相手に優勝したのは、アイントラハトの転機だった。30年ぶりぐらいとかですよね? あの試合は、多分99%の人が『バイエルンが勝つ』と思っていた。そんな中で重要な役割を果たせたと思っているし、そういう意味で大きなハイライトかなと思いますね。ヨーロッパリーグ優勝も、もちろん特別。順位をつけるのは難しいんですけど。自分がどれだけ絡んだとか。落ち着いて振り返ってみないと」

引退表明後も心境に変化なし

 もちろん目に見えたそうした結果も素晴らしいが、長谷部のすごさというのはそのブレなさではないかと思うのだ。ルーティンワークはクラブの関係者誰もが知っている。どんな時でもブレることなく100%練習に取り組めるための準備をし、練習後には丹念にケアをしてからさっと家路につく。そのスマートな立ち振る舞いから、クラブの若手選手はどれだけ多くのことを学んだことだろう。それこそ引退表明をしてからこの日までも、心境面での変化や取り組みで大きな違いがなかったという。

「そんなには無くて。自分自身誇りに思うことは、やっぱり最後終わるまで、自分のやるべきことをやってきたかなということ。自分が引退すると決めてからもそうでした。自分自身は変わらずにずっとやってきたかなと思いますね」

サッカーも社会と似ている

 長いサッカー選手としてのキャリアで様々な監督のもとでプレーをして、なかなか認めてもらえないもどかしい時期もあったはず。怪我で苦しんだ時期もある。そうした苦難を乗り越えてきたことは、長谷部のこれからにどのようにつながっていくのだろう。

「サッカーも社会と似ていて、監督とうまくいかないというような問題は、サッカーでもどんな組織でもあると思うんです。これまで培ってきたこと、それを乗り越えていくか、どう取り組んでいくかということは、これからの人生でも大いに役に立つと思う。一人の人間としてサッカーに成長させてもらったのが多くあると思うので、それをこれからの人生に活かしていきたい」

冷静な長谷部が泣き崩れた理由

 それにしても長谷部はどんな時でも冷静沈着。穏やかに心を整え続けてきた長谷部にとっては、ラストマッチであっても特別な試合ではないのか。

「サッカー選手をやめるということに、だいぶ時間をかけて準備できてたんで、本当に今日が近づいてきても、特に感情的になることがなかったんですけど……」

 そんな長谷部の感情の殻がポロポロと崩れていく瞬間があった。試合後のセレモニーに向けて記念Tシャツを着て、その準備を待っているとき、ベンチサイドから2人の子どもが長谷部のもとに駆け寄ってきた。娘と息子だった。

 ユニフォーム姿の2人を笑顔で抱きしめて、長谷部は動かなくなった。気持ちを押しとどめることができなくなった。どのくらい抱きしめていただろう。ここまでやり遂げた自分の最後の雄姿を愛娘と愛息に、見せることができた喜びがあったことだろう。苦しいこともたくさんあった現役生活での思い全てが押し寄せてきていたのだろう。

 2人が長谷部に手を振りながらベンチにまた戻っても、その姿勢のまま起き上がってこなかった。いつもゆっくりとした動作ですねあてを外しているので、そうかと思ったが違った。涙がとめどなくこぼれてきていた。しばらくしてようやくスッと立ち上がり、シャツの裾で涙をぬぐった。

「終わって、子どもが寄ってきた時はさすがにそれだけでちょっと感極まってしまいました。自分にとってやっぱり、家族はとても大きな存在だったので。思ったよりも、感情が出た。恥ずかしながら」

僕の妻はちょっと面白い

 その時の心境を尋ねられると、そういって優しく笑った。40歳まで現役生活を続けるのは並大抵のことではない。常人にはわかりえない悩みやもどかしさ、やるせなさだってあったはずだ。そうした時に家族がどれほどの支えとなってくれたことか。

 2021年の契約延長記者会見でこんなことを話していたのを思い出す。

「僕の妻はちょっと面白い。サッカーについては何も言わない。『いつもあなたの後ろに立っている』と言ってくれている。ちょっと古い世代の考え方なのかもしれないけど、妻のことをリスペクトしているし、感謝しています。すごいサポートをしてくれているし、プレッシャーもかけてこない」

妻と娘から贈られたケーキ

 契約延長のお祝いとして妻と娘がケーキを作ってくれたことを嬉しそうに話していた。「変わらず穏やかな日々を過ごしています」とも。長谷部はことあるごとにバランスの大切さを口にしていたが、プロサッカー選手として自分のやるべきことは徹底的にやり続ける一方で、オフザピッチでは穏やかな時間に癒されていた。それがあったからこそ、ここまでやり遂げることができたといっても過言ではないのだろう。

 ドイツ語での記者会見で地元記者から現役引退の実感について聞かれた長谷部が「難しいですね。まだプロ選手のつもりはあって。でも(それを実感する)時はいつか来る。今がやめる正しい瞬間だと思う。自分のキャリアを誇りに思う」と話した後、こんな風に続けた。

「明日からもっと自由な時間が増えますけど、みなさんも今日2人のモンスターがピッチにいたのをみたでしょ?(笑)明日から僕もまたプライベートでいっぱい走れるかも」

 ドイツ人報道陣が一斉に笑った。セレモニーの最中2人の子どもたちはグラウンドを楽しそうに駆け回っていたのだ。特に息子は顔なじみのスタッフに捕まっても、それを潜り抜けまた駆けだしていく。とても微笑ましい様子ではあるが、とはいえ、公の場に連れていくことはさすがに躊躇もあったという。

息子の走行距離すごかったですね(笑)

「妻とも相談しましたけど、まあでも記念になると思います。僕よりも走行距離は長いと思いますよ、今日は。息子の走行距離、すごかったですね(笑)」

 そう言って微笑んだその顔は、我が子の成長を心から喜ぶ父親のものだった。歴戦の勇士はこれからまた次のステージでの戦いに臨んでいく。でもそのまえに、愛する家族との時間を心ゆくまで楽しんでほしい。

<初回とあわせてお読みください>

文=中野吉之伴

photograph by Itaru Chiba