今年7月にフランス・パリで開催されたパラ陸上の世界選手権で、マルセル・フグ(スイス)が男子車いす・T54クラスの800m、1500m、5000mの3種目を制覇し、東京2020パラリンピックに続くトラック3冠を達成した。なかでも圧巻だったのが男子5000m決勝だ。レース開始後400m付近で先頭に立つと、徐々に2位集団を引き離して独走。ゴール付近にたどり着いたときには、2位集団の最後尾を捉える位置まで迫った。2位に40秒の差をつける9分35秒78の大会新記録で優勝した。

世界最強と名高いスイスのマルセル・フグは世界選手権で3冠を達成した
photo by X-1

近年の車いすレースでは、スイス代表選手の強さが際立っている。女子でもマニュエラ・シャーとカトリーヌ・デブルナーの2選手が君臨する時代が到来している。

東京パラリンピックの女子800m(車いす・T54)で金メダルを獲得したマニュエラ・シャーは、今大会ではT54クラスの400mと800mで優勝。その彼女を押し退けて1500mと5000mで勝利したカテリーヌ・デブルナーは、車いす・T53クラスの400mと800mで金メダル、100mでも銀メダルを獲得した。来年開催のパリ2024パラリンピックでは、車いすレースで他の選手を圧倒するスイス人選手に、他の選手がどこまで近づけるかが注目となる。

スイスの強豪に共通する点

実は、この3人には共通点がある。スイスには、先天性の病気や事故などで両下肢が動かなくなった対麻痺(ついまひ)の患者を専門に医療やリハビリを提供する病院「スイスパラプレジックセンター」がある。3人の選手は、この病院で支援を受けながら選手生活を送っているのだ。

スイス・ノットヴィルに位置するパラプレジックセンターの施設
photo by Takao Ochi

パラプレジックセンターは、スイス中央部に位置するルツェルン州のノットヴィルにある。アルプスの山々を水源とするゼンパハ湖のそばに施設があり、敷地内にはパラスポーツの国際大会が開催できる陸上競技用のトラックも併設されている。宿泊施設も充実していて、病気や事故で足の機能などを失った患者が、治療から社会復帰まで一つの場所で完結できるように設計されている。

フグは、パラプレジックセンターについて、「ここは、私にとってトレーニングの拠点であり、チームメイトや友人たちと過ごす大切な場所。ここにいる人たちが、僕に力を与えてくれます」と話す。

施設では年間1600人以上の患者に医療を提供し、それを支えるスタッフの数は1500人以上いる。病院の運営スタイルも独創的だ。収入の核は190万人を擁する有料会員で、個人会員の年会費は45スイスフラン(約7660円)、家族会員は90スイスフラン(約1万5320円)。事故や病気で生涯にわたって車いす生活が必要となった場合、会員は25万スイスフラン(約4256万円)を受け取ることができる。年会費は医療保険に似た役割を持っているが、脊髄損傷者を支えるために会員になっている人も多いという。

世界選手権で優勝したマニュエラ・シャーは、マルセル・フグ同様にマラソンでも活躍する
photo by X-1

レジェンドも語るセンターの意義

パラプレジックセンターを拠点にしたアスリートの一人に、パラスポーツ界で「レジェンド」と呼ばれるハインツ・フライがいる。

フライは、20歳のときに山岳事故で下半身まひになったが、車いす競技を始めて人生が変わった。パラリンピックでは1984年から夏冬合わせて16大会に出場。陸上競技やノルディックスキーなど、金メダルだけで15個を獲得している。2021年の東京大会では、自転車ロードレース(ハンドサイクル・H3クラス)で銀メダルに輝いた。60歳を超えての快挙で、メダルの総獲得数を34に伸ばした。そんな彼の競技人生も、トレーニング拠点であり、現在はパラプレジック財団の職員としても勤務するパラプレジックセンターに支えられてきた。

フライは、自然の中にこの施設があることの意味を、こう話した。

「ここは湖に近いでしょう。だから、入院した患者は最初にプールに入って、次は湖に連れていく。泳いだり、バーベキューをしたり。障がいが残ってショックを受けている人に、ホリデー(休日)のような体験をしてもらう。そこで、自分と似た症状のある車いすユーザーが人生をエンジョイしていることに気づく。障がいとの戦いは一生続きます。だからこそ、同じ経験をしてきた人のことを知って『こんな人生もあるんだ』と感じてもらうんです」

施設内には国際基準のトラックと練習場が整備されている
photo by Takao Ochi

スイスだけでなく、世界の車いすレースを引っ張る存在となったフグは、今ではパラプレジックセンターで治療とリハビリを受けている患者の憧れの存在でもある。だからといって、施設ではスポーツだけに力を入れているわけではない。

フライは言う。

「車いすユーザーにスポーツをすすめているのは、全員にパラリンピックに出場できるアスリートになってもらうためではありません。スポーツを通じて体力をつけて、あきらめずにチャレンジする精神を養えば、自立した日常生活を送るための助けになります。すると、自らに誇りを持てるようになる。障がい者こそスポーツをやるべきなんです」

パラプレジックセンターが目指すのは、患者一人ひとりの「クオリティ・オブ・ライフの向上」だ。クオリティ・オブ・ライフは日本語では「生活の質」や「人生の質」と訳されることが多い。健常者と障がい者がともに生きる共生社会をつくるために、まずは障がい者のクオリティ・オブ・ライフを上げる。それが大切なのだという。パラスポーツの世界で圧倒的な強さを見せる3人のスイス選手も、そのロール・モデルとなっている。

フグはフライに憧れ、アスリートとしての道を歩み始めた。今では彼より若い世代の車いすアスリートが、フグに憧れている。アスリートに必要なことについて、フライはこう話す。

「結果を出すために必要なのは才能ではありません。どれだけ情熱があり、チャレンジを続けるかです」

スイス代表選手の車いすレースでの圧倒的な強さの背景には、その情熱をサポートするパラプレジックセンターがある。そして、それを支えるのは190万人の有料会員で、それがスイスの車いすアスリートの強さにつながっている。

editing by TEAM A
text by KANPARA PRESS(Yukifumi Nishioka)
key visual by Takao Ochi