広島城112万石から萩城36万石で再スタートした毛利輝元
築城主の毛利輝元は、毛利隆元の長男として天文22年(1553)に生まれました。毛利隆元は、毛利元就の長男でしたが、永禄6年(1563)に若くして亡くなり、祖父・毛利元就の跡を継ぐ形で、毛利輝元が当主となりました。

その後、毛利輝元は中国地方を代表する大名に成長し、中国地方8か国112万石を領有。天正17年(1589)には広島城を築城しました。豊臣家の五大老にも数えられますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍の大将に選ばれるものの敗れ、大幅に所領を削られ、周防・長門(ともに山口県)36万9000石として移封。慶長9年(1604)に居城を萩城に決め、萩城の築城を始めました。まさに苦難のスタートでした。

萩城跡指月公園内には、志都岐山(しづきやま)神社があり、毛利元就をはじめ、隆元、輝元、敬親、元徳を5柱とし、初代から12代まで萩藩歴代藩主が祀られています。志都岐山神社のミドリヨシノは珍しい桜の品種で、山口県の天然記念物に指定されています。

石切場が残る詰丸の指月山
天守台の背後にそびえる標高143mの指月山には、萩城の詰丸が築かれ、城内と海を監視する場所として利用されました。山頂までは登山道があり、登ると徒歩20〜30分ほど。別名「要害山城」と呼ばれ、二の丸と本丸から構成され、周囲を石垣と土塀で囲っていた本格的な山城です。飲料や消火用の貯水施設であった用水や池の跡も残っています。

城ファンにたまらない、石切場の跡も残っています。多数の矢穴が開いた岩から築城過程がうかがい知ることができます。指月山は、約1億年前にマグマが冷え固まってできた、火山性の岩・花こう岩によってできています。

ちなみに、地質や動植物から地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所を「ジオパーク」と呼びますが、萩城跡を含む萩は2018年9月に「日本ジオパーク」に選定されています。まさに地質の面から見ても貴重なお城なのです。