NPO法人「ふるさと回帰支援センター」によれば、2021年の東京から地方への移住相談は、10年前の約8倍に増えたそうだ。地方への移住や若い子育て世帯をサポートするため、自治体が設けるさまざまな支援制度が、さらにその流れを後押ししている。今回紹介するのは、約4年前に岡山県から北海道へ親子4人で移住した、渡辺さん一家だ。

蘇った町に勢いを感じ、一家で移住を決意


渡辺雅美さん(43歳)と裕介さん(44歳)夫妻は、共に岡山生まれの岡山育ち。移住前までは岡山で働き、出会って、2015年に結婚。今は凌平くん(7歳)、啓悟くん(6歳)の子育て真っ最中だ。

岡山では、雅美さんは助産師として総合病院の産科に、その後は看護学校の教員として勤務。裕介さんは飲食店の経営者だった。

岡山で生まれ育った二人だったが、「一生のうち一度は自分たちで決めた土地に住みたいね。海外なら英語圏で物価もそれほど高くない、マレーシアもいいね」と話していた。


上士幌町の青空の下で笑顔を見せる渡辺さん一家


とはいえ、やはり雅美さんの助産師資格が使える国内で、子育てもしやすい移住先を、と探していたころ、友人から北海道・上士幌町(かみしほろちょう)の情報を聞く。

十勝地方の北部に位置し、町域の76%が森林、人口5000人弱、牛約40000頭。毎年「バルーンフェスティバル」が開かれる熱気球や、東京ドーム358個分の「日本一広い公共牧場 ナイタイ高原牧場」などが町のシンボルだ。

雅美さんは上士幌町における地方創生の取り組みを描いたノンフィクション『上士幌町のキセキ』(木楽舎)を早速読んで、竹中貢町長の考え方に共感する。子育て施策に力を入れるこの町に勢いを感じ、2019年9月、関西で行われた移住フェアに参加することに。


熱気球が浮かぶ風景は上士幌町のシンボル

そこで説明を聞き、同11月には実際に上士幌町の体験移住にトライ。実際に寝泊まりした町で、景色が雄大で美しく、空気がきれいで、子どもがのびのび走り回れることを確認。

十勝産の肉や野菜など、地元の食材が手に入り、移住者が多い環境も魅力的だった。移住を決め、翌月の12月には引っ越し準備、2020年2月、一家は上士幌町の住人になる。


高校卒業まで子どもの医療費が無料、家賃は月35,000円


町はとにかく、子育てサポートが手厚い。

認定こども園は給食費も含め保育費無料、高校卒業まで医療費も無料。子育て世帯には住宅に対する補助金もあり、渡辺さん一家の賃貸住宅の家賃は月35,000円だ。

一方で、不便だと感じることもある。

例えば小児科、耳鼻科、歯科、眼科などの専門のクリニックが遠かったり、少なかったりで、急に体調不良になったときに、すぐ通院しにくい点。

「私の家族はたまたま健康で、頻繁に通院するわけではないですが、持病がある方や体調を崩しやすいお子さんの家庭では心配になるかもしれません。でも、病院がたくさん建っている地域では、こんなに広い空は望めないでしょう。大自然に日々癒されていることを思うと、大変な点より優っている点のほうが多いと感じています」(雅美さん・以下同)


どこまでも続く雪景色


上士幌町では、職の転機も訪れた。裕介さんは移住後、地域おこし協力隊として2年働き、その後起業して、現在はHP制作などの仕事をしている。

雅美さんは当初、どこか近くのクリニックで看護師として働くのかな、という漠然としたイメージを抱いていた。最寄りの産婦人科病院は自宅から40㎞、車で1時間弱と離れているので、助産師として働くことはないだろうと思っていた。開業するつもりもまったくなかった。

「開業には特別なスキルが必要だろうから、自分にはできないと思っていました」


「助産師で二人の子の母親でもある私がやるしかない」


移住した2020年の夏ごろ、役場の保健福祉課から、母子手帳を渡したり新生児訪問の手伝いをして欲しいと声がかかる。

その仕事をする中で、妊娠・出産・育児に直面する新米ママたちから、「産婦人科病院が遠いため、近くに頼れる場所がない」という切実な声を聞くようになる。

地域に産前・産後のママをサポートする助産院が必要だ。起業など考えたこともないし、スキルもないけれど、皆が安心できる場所をつくることなら、私にもできるかもしれない。いや、助産師で二人の子の母親でもある私がやるしかない。

こう決意した雅美さんは早くもその秋、町主催の起業塾に参加。その後、役場から開業支援金の補助を受け、翌21年8月に訪問型助産院を開院、11月には施設「マミー助産院」をオープンさせた。


助産院開院のお祝いを手に、涙する雅美さん


こうして地域の助産院院長として、上士幌のママと赤ちゃんと伴走する毎日を送るようになった雅美さん。出産以外の産前・産後のママと赤ちゃんのケア、例えば母乳が出にくいときのマッサージ法など、さまざまな相談に対応している。

「自分も同じ地域で子育てをしているからこそ、大変さ、喜びなど、ママたちと分かち合えることが多いと感じています。日々、保育園やスーパーなどでママたちから質問を受けることもあり、近くにいる町の助産師さんとして認識してもらえているようです」


ママと赤ちゃんのケアは助産院への来所と自宅へ訪問、両方で


子育てしながら助産師として奔走するのはさぞ大変かと思いきや、意外にも「苦労は実はあまりないです」と笑う。

「開院した当初は『私がここにいないとママが困る』という使命感が強過ぎて、休めないと思い込んでいました。でも、やっていくうちに、私自身がここに暮らしていることでママたちが安心してくれて、助産師でない私も大切にしてくれていることを感じ取り、私もママと赤ちゃんの強さを理解できるようになりました。

今では年末年始とお盆は1か月近く休み、岡山の実家で両親と過ごすようにしていますが、その間はLINEでアドバイスするなど、フレキシブルな対応を心掛けています」


もしも将来私がここを離れることがあったら…


雅美さんは、「産後ケア事業」にも力を入れている。産後概ね1年未満のママと赤ちゃんに対して、産後の健康チェックや授乳相談、レスパイト(育児の一休みや息抜き)などのケアをする。

町の助成を受けられる上士幌町民であれば、例えばランチ付きのデイサービス型でも1回2,800円と、利用しやすい料金だ。

「赤ちゃんってかわいいんですけど、生まれたら昼も夜もなく24時間欲求を全力でぶつけてくるんですね。会話ができないその相手の欲求にこたえて、ママは100%GIVEをし続けるので、常に寝不足だし、心の中の『優しさタンク』が枯れていく感覚がある。

そんなときに周りの人に気遣ってもらえると、またタンクが満たされるんです。誰かのちょっとした声掛け、例えば『大変だよね』の一言でも、敏感に『優しくしてもらった!』とうれしくなって、また頑張れる。そういう優しさの循環が、助産院から生まれるといいなと思って生きています」


「産後ケア事業(レスパイト・デイサービス型)」で手作りランチをいただきながら、ホッと一息つく利用者ママとそれを見守る雅美さん


そんな雅美さんに、将来についての考えも聞いてみた。

「今、小さな息子たちを育てるのにベストな選択肢としてここに住んでいますが、もしかするともっと大きくなったときに、進学といった学習面を考え、別の選択をするときがくるかもしれません。あるいは将来、親の介護で岡山に戻る可能性もなくはないですし。

岡山のことも、離れて初めてよさがわかった面があります。毎日晴れているとか、実家が近いのは有難いものだとか、当たり前に身近にあった地元のよさは、離れずに住んでいたら気づかなかったかもしれません」


上士幌町の雄大な自然の中でのんびり過ごす息子さんたち

そのときベストな動きができるよう、仕事に関しても地域で繋がりをつくっているという。

「SNSで、北海道内の助産師さん仲間と繋がっていて、ときどきは会って情報交換しています。もしも将来私がここを離れることがあったら、この助産院を継いでくれる、助産師ファミリーを募ろうと思っています。のびのびしたこの環境で子育てしたい家族は必ずいると思いますので」


「地方で生きる」ことが革命的に変わった


「見知らぬ土地でも身軽に引っ越し、やりたいことに今、チャレンジする行動力は、渡辺さんのような新しい世代に特有のものではないだろうか」

こう話してくれたのは、NHK『いいいじゅー‼』番組内で渡辺さん一家の移住物語を制作、放送した、鈴木真美さん(NHKエンタープライズ 制作本部 国際番組部 エグゼクティブ・プロデューサー)だ。

「最初に番組の企画が出たとき、移住といったら定年した夫婦が田舎で家庭菜園でもやりながら、最後の人生をのんびり暮らす、というような家族像をイメージしていました。しかし制作を始めて、こうした価値観とはまったく違う若い世代が現れていることに驚きました」


NHK『いいいじゅー‼』番組内で紹介されたときの渡辺雅美さん

鈴木さんによれば、移住を実行する若い世代の特徴は三つ。

①自分の好きなこと、仕事をしたい。地方にもやりたい仕事はたくさん眠っている。

②リモートワークに象徴されるネット社会に生きているので、地方にいても世間から離れるわけではない。

③家族と過ごす時間を確保し、自然の中でのびのび子育てしたい。


このような価値観を持つ若者世代が現れたことで、「地方で生きる」ことが革命的に変わったのだという。東京のような大消費圏に住んでいるメリットがもうあまりなくなったのだと。

筆者も何組かの移住家族の取材を続ける中で、同じようなことを感じていた。

上士幌町に来てから家族で過ごす時間も増えたという渡辺さん一家。住んでみたい土地で、地域に貢献しながら自分たちの子育ても楽しむ。まるで旅人のように軽やかに町を訪れ、ママと赤ちゃんに伴走する雅美さんの奮闘ぶりは、確かに新しい世代の移住スタイルだ。

取材・文/中島早苗
NHK『いいいじゅー‼』(総合 毎週火曜午後0時20分〜放送)