京都府北部の丹後半島に位置する伊根町は、江戸末期から昭和初期に建てられた約230軒の舟屋が続く独特の町並みで「日本のヴェネツィア」とも呼ばれ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。今回紹介するのは、そんな伊根町が忘れられず、京都市内のサラリーマンから遊覧船船長に転身した、寺谷僚介さんの移住ストーリーだ。

「伊根で漁師になりたい」会社員7年目での決意


寺谷僚介さん(32歳)は小学生のころから毎年、父と一緒に京都市内の自宅から車で2時間の伊根町に釣りに行っていた。毎回同じ民宿「鍵屋」に泊まり、朝起きたら海があって、宿の前から船に乗って釣りに行ける楽園。大人になったら伊根に住もう……寺谷少年はそう心に決めていた。

時は流れ、少年は大学の経営学部を卒業。同級生がみんな就職活動をする中、同じように活動し、企業に就職した。医療機器の営業マンとして勤めていたが、やっぱり「伊根で漁師になりたい」という思いは消えなかった。


江戸末期から昭和初期の舟屋が並ぶ伊根湾の景観。舟屋とは、1階が海から船を直接引き入れて格納する船倉、2階が居室などになっているこの地方独特の建物


そこで、2017年ごろから人伝てに伊根の橋本水産を紹介してもらい、社長に「就職したいです」と連絡。「人手は足りているから」と断られるも、翌年には船舶免許を取得し「本気度を見せ」、就職希望をアピールし続けたところ、2019年、遂に橋本水産から内定をもらった。

寺谷さんは7年勤務した会社を退職し、伊根に移住した。


漁師から遊覧船の船長へ転身


初めての漁師としての仕事は、当然ながら楽ではなかった。水を吸った漁具は重く、ハードな肉体労働が続いたが、大好きな海のことを学べる毎日は新鮮で楽しかった。

3年ほど漁師として働く中で、海や釣りと同様、人と話すことが好きな寺谷さんは周りから「遊覧船の船長やったらどう?」と勧められる。

自分の船で海に出て、お客さんを案内して楽しませる遊覧船の船長。船があれば釣りにも行ける。

「これは自分にとって天職なんじゃないか?」

そう考えた寺谷さん、2022年に約1000万円の船をローンで買い、漁師から遊覧船「リイネ(Re:INE)」の船長へ転身した。


1000万円で購入した念願の遊覧船「リイネ」。「もちろんローン返済中です」


日本海側に位置する伊根町の冬は雪が降る厳しい寒さのため、遊覧船の稼働時期は3月の春休みから、11月の末まで。夏の7〜9月が繁忙期だ。

朝8時から夕方5時まで、1回25分程で伊根湾を周遊し、大人1名の料金は1000円。稼働できない季節があっても年収は、サラリーマン時代の1.5倍になった。

現在、伊根湾の遊覧船は全部で5艘だが、今年もっと増える予定だそうだ。当然、競争があるため「その回毎のお客さんに合った楽しませ方、接し方」をどう工夫するか、日々奮闘している。

「遊覧船に乗るときって、楽しみ方が人それぞれ違うんですね。静かに集中して写真を撮りたい人もいれば、伊根についての案内、話を聞きたい人もいる。その時に乗ってくれたお客さんがどういうニーズなのかを素早く感じ取り、満足度の高い遊覧、時間を提供できるよう、毎回頑張ります。

船長の仕事はトークショーみたいなものでもあるので、人とコミュニケーションするのが好きな僕にはやりがいがありますね」(寺谷さん・以下同)


毎回変わる観光客のニーズを素早く察知して、いかに楽しんでもらうか、寺谷船長は日々奮闘中

床下から「マッカーサー来日」みたいな見出しの古い新聞が…


遊覧船としての仕事は順調だが、地域には課題もある。

伊根には飲食サービスが少ないため、観光客が夜食事をする場所がほとんどないのだ。宿は約30軒あり、外国人観光客も多いため、4か月先までほとんど満室だというが、「飲食店がない」と外国人向けガイドブックにまで書かれているほど。

そこで寺谷さんは、同じく移住して来た知り合いのシェフと共同で、仕出しサービスを始めることに。オリジナルの朝食や夕食を作り、ケータリングで宿のお客さんに提供するデリバリーサービス「Ohitsu」がそれだ。


食事を宿の観光客に届けるデリバリーサービス「Ohitsu」で使うのは、伊根で昔ご飯を入れていたおひつ


メールかインスタグラムでオーダーする予約制だが、宿泊客が事前に知ることが難しく、今後も情報発信やPRをもっと活発にしていきたいという。

寺谷さんは他に、遊覧船が稼働できない期間も有効活用しようと、新しい展開も考えている。

2023年に舟屋を買い、そこから遊覧船に乗り降りできるよう改修している。舟屋を見学したい観光客は多いので、同じく移住してきたカメラマンの友人に撮影してもらい、YouTubeで発信する準備も進行中だ。

住まいは空家バンクに登録されていた築60年以上の民家で、家賃は3万円。

「食事のデリバリーサービスを始めるのに家のキッチンを改修したとき、床下から『マッカーサー来日』みたいな見出しの、ものすごく古い新聞が出てきて(笑)。元々は相当昔からある家かもしれませんね」

海釣りの魅力は「どんな大きさの何が釣れるかわからない『ガチャ』的な面白さがあるところ。上手な人とそうでない人の差があるから、上達する楽しみもある点は、ゲーム感覚に近いかも」


デリバリーサービス「Ohitsu」のメニューには、地元の野菜や船長が釣った新鮮な魚が使われる


やりたいことがたまたま伊根にあっただけ


京都市内のサラリーマン時代と、伊根に移住してからでは、どんな心境の変化があったか聞いてみた。

「サラリーマン時代は家と職場を往復して、休日を待つという生活でしたが、伊根に来てから心に余裕ができましたね。好きなことを仕事にできて、やりたいことを本気でやっているので、ストレスがないというか、余計なことを考えなくなりました」

大学卒業後、市内で一般企業に勤めたのは回り道だった?

「いや、全然。サラリーマンの経験で日本の社会の常識を学べましたし、むしろよかったです。今はSNSなどで、仕事や生活が多様化して『サラリーマンだけが普通の生き方ではないんだ』というのがわかる。

時代は変わっているんだなと思うし、新しいこと、やりたいことに挑戦しやすくなっていて、たまたま僕もその波に乗っただけなのかもしれません」


サラリーマン時代も毎週末には、伊根に釣りに来ていた


現在32才、独身だが「いつかは家族を持ちたい、とは思いますが、今は女性関係で悩んでいる時間がないです(笑)。やらなきゃならない仕事がいっぱいあって、それが先で」と、婚活するのはもう少し先になりそうだ。

移住したいと考えている方にアドバイスをもらった。

「自分の道を貫く人間は格好いいと思うので、やりたいことがあるなら動いてみて!と、背中を押したいです。動いてみて初めて起こるイベントって絶対あると思うから。

僕も『伊根に住む』って言ったら、周囲に『どこ?』『そんな田舎で生活していけるの?』などと言われましたが、やりたいことがたまたま伊根にあっただけで、『移住』という感覚はあまりなかった。転職した、という感覚に近いかな。

やりたいと思っていたことを実行したら、いつの間にか世の中が『移住推し』になっていた感じ(笑)」


飲食店が少ない伊根での食事のデリバリーサービスは観光客に好評


地域に溶け込む秘訣はあるか、聞いてみた。

「移住先には以前からの社会があり、溶け込むにはまずその場所の常識を知る必要があります。地域の歴史や習慣などを調べて、住民と信頼関係を築いた上で、少しずつ自分を出して、はみ出していけばいいんじゃないかな」


「無駄に20代、30代を過ごしたくありません」


NHK『いいいじゅー‼』番組内で、寺谷さんの移住物語を制作、放送した、NHKエンタープライズ 制作本部 国際番組部 エグゼクティブ・プロデューサーの鈴木真美さんはこう話す。

「番組の取材を通して、移住した若い人たちから異口同音に出たのは『人生は短いから、無駄に20代、30代を過ごしたくありません。好きなことをやらせてください』という言葉。この思いが若い人の強烈なモチベーションになっていて、地方移住の動機になっていると思います」



30年前なら、就職して下積み時代に耐え、仕事に習熟すれば、将来希望するポジションや収入を得られる、だから頑張るというのが、働く若者のモチベーションだったかもしれない。

しかし、時代は変わった。失われた30年を経た日本社会を見ている今の若者は、昔とは違う価値観で職や生き方を決めていくのだろう。

自分の船「リイネ」を自在に操り、真っ黒に日焼けした姿でお客さんに伊根湾の魅力を語りかける寺谷船長の笑顔に、信じた道を進む人の清々しさを感じた。



取材・文/中島早苗
NHK『いいいじゅー!』 総合 毎週火曜午後0時20分〜放送