13年前の東日本大震災の原発事故により、飼っていた牛の殺処分を余儀なくされ、事実上の廃業状態となった福島県浪江町の酪農家・石井隆広さん(75)。すっかり気力を失ってしまうも、再び家族で一緒に暮らすため、福島市に一軒家を購入した。しかし……。

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避難先でも“よそ者”として見られ…



かつては妻・絹江さん(72)と隆広さんの両親、さらに長男夫婦と孫ふたりの8人で幸せな家庭を築いていた。それが脆くも崩れ去ったのは2011年3月11日。

震災で一家はちりぢりとなったが、その約2年半後、新しい家で再び家族と一緒に暮らしたいと、隆広さんは福島市内の一軒家を購入した。

「ここは、広い庭が気に入ってね」


インタビューに応じる石井隆広さん


筆者もお邪魔した約70坪の邸宅で、隆広さんは窓の外を見ながらそう呟いた。購入当時で築30年ほど経っていたものの、広々とした庭にガレージまでついていた。ガレージには隆広さんの趣味である自慢の愛車、日産GTRのタイプMスペックニュルという珍しい車も保管できた。

月に1度、愛車をていねいに洗い、エンジンの調子をチェックするときは隆広さんにとって至福の時間。この地で石井家の新たな家族の物語が再び築き上げられていくかのように思えた。
だが――。新たな暮らしは隆広さん一家にとって、思いのほか窮屈なものだった。

「車のエンジンをかけたら近隣からうるさいと怒鳴られ、チェーンソーで庭の草刈りをしていたら、やはり騒音で文句を言われたこともあります」(絹江さん)

隣の家が遠くにあるのどかな浪江町とは違い、住宅が密集している現在の住まいでは物音や騒音に気を遣う生活を強いられるのは、ある程度は仕方のないことだろう。しかし、一部の近隣住民からは、浪江町から避難してきた“よそ者”として見られている節があった。


当時のまま時が止まっている浪江町立津島小学校(現在は閉校)


4、5年ほど前から、隆広さんに自治会の会長をやってほしいという話が持ち上がっている。だが、そもそも隆広さんの住民票は浪江町に置いたまま。つまり福島市民ではない。一時的な住居でしかないのだ。

これまで組長や副班長といった小さな集まりの役職を引き受けたこともある。だが、ここに来たくて浪江町を離れたわけではない石井さん一家にとって、やはり自治会の会長というのは重荷だろう。


震災紙芝居は山田洋次監督も見学


「自治会っていうのは、このあたり100軒くらいの会長だ。理屈から言って、そんなのできるわけねえ。市政だよりとか毎月くっけど、そんなの見ねえべした。何やってんだか、他がどんな家だかもわかんねえし。ここに40年も住んでて班長をやったこともない人もいるんだ」(隆広さん)

その話を隆広さんから聞いたとき“よそ者”であるがゆえ、面倒な仕事を押し付けられているような気がしてならなかった。寡黙な性格の隆広さんは、表情を変えずにこう漏らす。

「ここは住みにぐいな」

一方、絹江さんは役場を定年退職してから、多方面に活躍の場を広げている。例えば農園だ。福島市内に農園を立ち上げ、生産から加工まで行っている。エゴマを始め、さくらんぼ、ブルーベリーに無花果……。ジャムやドレッシング、味噌といった絹江さんの農園が作る加工商品がテレビで取り上げられたこともあり、全国から注文が絶えないそうだ。スタッフも5、6人雇っているという。


活躍の場を広げる妻の絹江さん


「公務員としての退職金をもらったんだから、好きにやりなさいとお母さんから言われたのがきっかけで、こうした農園をはじめました」(絹江さん)

仲間を募って浪江町でもエゴマ栽培を行ってきた絹江さん。エゴマは町の特産品になりつつある。それだけではない。

「他にも浪江発の商品を作っていこうと思い、馬ブドウ(正式名はノブドウ)を試験栽培したりしながら、すでに動き出しています」(絹江さん)

さらに驚くのが、震災の出来事を後世に残すための活動だ。絹江さんは全国を回って紙芝居の読み聞かせをしているという。今年は、許可をとって浪江町の自宅にある牛舎に入り、紙芝居を行った。そこには、あの山田洋次監督(92)も来たという。


「浪江ちち牛物語」


「何でだ? 何でオラたち死ななければならねえんだ?」
「知らねえ。クッソオ〜父ちゃんのやつ、裏切ったなあ」
「そんなことはねえ。父ちゃんはそんなことはしねえ」

これは紙芝居「浪江ちち牛物語」の一節だ。擬人化された牛の物語で、乳牛を殺処分することになった隆広さんの体験や心境を基に、広島県の作家が紙芝居にしたものである。


牛のことは「もう話すな。俺も悲しくなっから」


今年2月、国内外の若手映像作家が参加するワークショップに、山田洋次監督が訪れ、「浪江ちち牛物語」が今後制作される短編映画の中で取り上げられるそうだ。絹江さんらが牛になりきって紙芝居を上演する様子を撮影し、それを山田監督はじめ、ハンガリーの映画監督タル・ベーラ氏や若手映像作家らが見学したという。

「あのときは監督も周りの人たちも、みんながすすり泣いていましてね」(絹江さん)

紙芝居の最後には、隆広さんが号泣するシーンもある。隆広さんは、当時の様子を思い出したようにこう話す。


牛舎で働く13年前の石井隆広さん


「あんときの気持ちは郡山くんならわかるよな。一緒にな、写真撮るのにいたからな」

これまで自宅の牛舎では、大学生を集めての上演会など合計3回、紙芝居を行ってきた。また全国各地で上演するため、絹江さんは日々駆け回っている。

体調がすぐれない隆広さんは今、特に仕事という仕事はしていない。やることといえば、妻の農園を手伝うことくらいだ。

「お父さんにはトラクターで畑をうなったり(耕す)してもらっています。今朝も、草が生えてきたからマメトラ(農業機械)で草あげてねっていうと、『わかった』と。そうやって仕事をお願いしないとお父さんは動けない。自分からというのはできない。でも、それでもいいかなと思ってるんです」


「元気でないべ」気力を失ってしまった現在の隆広さん


そう話す絹江さんは、実は自分でもトラクターの運転はできる。それでも隆広さんにお願いするのは、隆広さんを外に引っ張り出すためだ。あの日から時間が止まったままの隆広さん。それでもいいと絹江さんは、じっと夫を見守っている。

一緒に暮らす父親は約2年前に亡くなり、今年は母親も他界した。13年という歳月は隆広さんの中で無常に過ぎていく。最近は、「俺ももう長くはないから」と妻に弱音を吐くこともある。それでも絹江さんは夫を見守ることしかできない。

「かわいそうになっから、もう話すな。俺も悲しくなっから」

あの日を境に、夫婦のあいだでも牛の話題を避けようとする隆広さんの心境は今でも変わらない。今後、浪江町の自宅に帰ることになったら、思い出が詰まった牛舎は取り壊して更地にすると決めているという。



取材・文/甚野博則
集英社オンライン編集部ニュース班
撮影/Soichiro Koriyama


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