球団による“搾取”から脱却し、選手たちの権利を獲得するため、初代会長・中畑清らの奮闘もあり、1984年に日本初のプロ野球選手会労組が設立された。だが、そこには暗雲も漂う。1986年の開幕直前にヤクルト選手会が突然、労組からの脱退を発表。さらに91年、今度は三冠王・落合博満も離脱を表明したのである。

落合、真弓、田尾、梨田ら28会のメンバーが集結

1982年7月。日本で初めてプロ野球選手会の事務局を組合にするという提案が具体的になされた。この年の暮れに象徴的なひとつの事件が起こる。ロッテの捕手、高橋博士が、提示された契約条件に納得できず保留していた中、球団側が一方的に解雇通告を出したのである。通常は折り合うまで話し合うものであるが、突然のクビでは選手は路頭に迷ってしまう。

事務局は年が明けた1983年1月に高橋の不当解雇撤退の支援活動を始めた(高橋は再契約後、任意引退となり、保障金が支払われた)。そして7月23日、選手会の臨時総会において組合結成の方針が決定され、規約は事務局が立案することとなる。新しい野球協約施行に向けた選手側からの提言である。

中畑は秘密裏に発案を共有するメンバーとして落合博満、真弓明信、田尾安志、梨田昌孝ら、1953年生まれ(28会)の選手会の仲間に声をかけ、やがて彼らも立ち上がっていった。中畑は言う。

「正直みんな、よくわかっていなかったと思うんだけど、『キヨシ、お前がやるなら力になろう』と言ってくれてね。そこで意思統一したのは目的意識だよ。我々は何のために組合をつくるのか。それは『選手が消耗品やアクセサリーでなく組織として法律で守られる地位に就くこと、そして機構や球団と対等に物が言い合える関係になること』。このポリシーがぶれると圧力がかかって揺さぶられたときに、一気に潰されるから。

事務局長に誰か据えなくちゃいけないとなって、日本ハムにいた選手で西井敏次という男を入れた。彼はよくやってくれたよ。それから阪神の真弓明信。阪神と巨人のライバル球団だけど、真弓とはすごく通じ合えて、彼は物事のポイントをよく抑えてくれた」

1984年2月のキャンプインと同時に選手会の西井事務局長が各球団のキャンプ地を回り、選手たちに組合についてのレクチャーを施した。アンケートを取り、加入を促すと、即座に全員が加入届を提出してくれた。

「東京地方労働委員会に組合の申請をするために各球団から情報をとる必要があったんだ。イベントや練習のスケジュールで選手たちがどれだけの時間、拘束されているのかを、各チームに協力を依頼して徹底的に調べて弁護士に提出したら、『これは平均的な労働者以上の縛りだ。組合を作る意義は十二分にある』と言われたよ」

一年のうちの半年がシーズンで、他にもキャンプ、オフには球団行事が目白押しで選手が自由に使える時間は驚くほど少ない。

7月21日、選手会の臨時総会が開かれ、事務局の規約が承認された。まだ労働組合法上の労組となる要件は満たしていないが、そこに至るためのステップとしてアウトサイダーユニオン(法外組合)が立ち上がり、中畑が会長になった。ここで対外的に表に出た中畑は畳みかけていく。

9月30日、神宮でヤクルト戦のあったこの日、地労委に組合資格審査請求を提出。そしてオフに入った11月5日、ついに地労委は選手会を労働組合として認定した。

中畑が自宅リビングのソファから身を乗り出して当時を想起する。

「認定の連絡はこの家の電話で受けたかな。まだ携帯なんてない時代じゃない。本当にうれしかった。報われた気がしたね」

そして11月19日にプロ野球選手会労組は法人登記された。晴れて正式な労働組合として誕生したのである。

しかし、当時の報道を見ると、決して好意的なものばかりではなかった。

三冠王・落合博満の選手会離脱

「そう。何千万円ものお金をもらっているプロ野球選手というイメージがあって、そんなに恵まれている連中がなんで組合をつくるんだとね。だから、俺はまず多くの人が理解しやすい待遇改善の提言を表に出していったんだ。それはマスコミを通じて理解してもらうためだった。こんな状態では“夢のある世界”とは言えないでしょうと」

中畑は選手が全力で安全にプレーができるようにフェンスにラバーカバーをつけることや膝の負担が増える人工芝の改善などを訴えた。さらには移籍の自由であるFA(フリーエージェント)も視野に入れていた。

ところが、この方針に同志である重鎮との間で齟齬が生じていくことになる。三冠王・落合博満である。ロッテのマネージャーだった松原徹(後に事務局長となってストライキなどで辣腕を振るう)を事務局に紹介してくれるなど、当初は協力を惜しまなかった落合であるが、やがて「それは向かっている方向が違うだろう」と告げて選手会を離脱していくのである。

「落合は『なぜ、統一契約書の問題に真っ先に着手しないのか?』という考えだったんだ。統一契約書は機構がつくったものだから、そりゃあ向こうが有利だ。こつこつと待遇や環境の改善の話をするんじゃなくて、最重要課題に行けと。

でも統一契約書の問題をいきなり出しても一般の人たちにはわからない。俺は戦略的にマスコミを敵にしてはいけないと思っていた。プロ野球選手が置かれている環境を具体的に知ってもらい、そして組合という存在を発信してもらって世論を味方にする。いわば中畑流。ただ落合はやっぱり”俺流”なんだよ」

落合はFAの導入よりも統一契約書の破棄を主張して組合を離脱する(1991年)のであるが、そのFAの権利が獲得されると(1993年)、真っ先に行使したのも落合であった。これもまた「俺流」であろうか。 

話を1985年のオフに戻す。組合は設立したが、ここからまた労使交渉という大きな仕事が待っていた。あらためて中畑に当時の努力の軌跡を訊いた。

「主に機構側の福祉委員会と交渉するんだけど、そこは親会社から管理職クラスが来ていて、たいてい5対1での話し合いなんだ。もちろんこちらが1だよ。俺は野球バカだったけど、労使交渉もやって来た百戦錬磨の人たちと対等に戦うために必死で勉強したね。何を言われても反論できるようにシミュレーションしたし、キャッチボールの精神で機構側の相手も尊重したから、あの時代の福祉委員会の人には俺は信用あると思うんだ」

そうした交渉の中で特に今も記憶に残るやりとりは、どんなものか。

「『この組合構想は本当に君ひとりの考えなのか?』と言われたね(笑)。俺が妙に詳しいのでバックに誰かいるのかと思われたんだろうな。でもね、労働法も独学で学んで、食らいついていったから」

オフが明け、春季キャンプも終えていよいよ、選手の権利保障獲得に向けてのシーズンを迎えることとなった。ところが、1986年の開幕を直前に控えた4月2日に激震が起きた。ヤクルト選手会が突然、労組からの脱退を発表したのである。

ヤクルト離脱の背景に親会社からの圧力

会長の角富士夫は同日夜、神宮球場で記者会見を行い、「われわれは現状で満足しており、労組が何であるか理解できない」との理由から、脱退することを表明。

同席した前会長の八重樫幸雄も「私のときに(選手会労組への)入会届を出したが、そのときは年俸や年金交渉で、選手側の立場を強くするためということで、ストなどの話はなかった。ストやオールスター戦ボイコットなどが出てくると話が違う。組合の方針などもわれわれのところまで知らされず、いきなりマスコミで公表され、ついていけない」と発言。

これは中畑が機構側との交渉の結果如何においてはオールスターのボイコットも辞さずと発言したことに対しての反応であった。脱退文書は午前中のうちに角会長からホテルで合宿中の中畑にすでに手渡されていた。

内容は「ヤクルトは球団と表裏一体のもので、集団の力を借りて交渉しなくても、われわれの求めるものは常識の線で満たされている。ヤクルト選手会はとりあえず組合入会を辞退し、オールスター戦終了時までにチーム全員の総意をとりまとめたい」とあった。

会見のコメントや文書だけを見ると、ヤクルトの選手たちは現状に満足しており、組合設立の意義自体に懐疑的になったことで自発的な脱退行動に出た、と読み取れる。しかし、実情は違っていた。組合の存在しない親会社からの明らかな圧力があったのだ。

のちにヤクルトの古田敦也会長がスト権を行使して球界再編の危機を乗り切ることになるのだが、この当時は松園尚巳オーナーによる切り崩しに遭っていた。中畑が言う。

「尾花(高夫・ヤクルト投手)がすぐに俺のところに来てくれてね。『すみません。あと三か月待って下さい。絶対に再加入しますから』と言うんだ。松園さんにいろいろと詰められたらしいんだな。『そういうことを許さないために組合はあるんだ。どんどん利用してくれよ』と伝えると尾花は、『わかっています』と言ってくれたよ」

中畑は尾花を信じて、ヤクルト本社から支配下選手たちに圧力がかかっていたことをマスコミにも一切口外せず、ひたすら待った。当時、スワローズの選手は巨人戦で出塁すると、ファーストのポジションにいた中畑から、組合に戻れと説得されるので、早く二塁に行こうと頻繁に盗塁を試みたと言われていたが、それは都市伝説である。

「3か月ではなく、結局6か月かかったけど、尾花は約束をしっかりと履行してくれたよ」

「今は1年がんばれば、すぐに年俸1億円だからね」

中畑は獲得した権利について今、こんな総括をする。

「最低年俸保障については、球場に行くと若い連中からありがとうございますとよく言われたね。380万を800万円(当時)にしたからね」

年棒が800万円以下の選手でも一軍に出場登録されれば、出場するしないに関わらず、試合数ごとに日割りで加算することにした。これは采配を振るう監督にとっても好評だった。一方で実力の世界であり続けることは、競技力向上のためにもこだわった。

「二軍にいるのにあまりにも恵まれ過ぎているというのもプロとしておかしいでしょ。そこは何から何まで守ってあげるというのではなくて、一軍を目指すモチベーションも考えての最低保障だった」

悔恨もひとつある。それは年金制度の廃止だ。年金は選手が引退後、55歳から、年間120万円が支給されていたが、財源不足を理由に2011年に廃止された。

「自分が何をテーマに選手会をつくったかというと、年金制度の充実だったんだよ。引退後の生活不安を払拭させたかった。だから年金制度がなくされたことには、悔しさが残るね。あのまま残っていれば、厚生年金と終身年金で月12~13万円。それだけあれば何とか食っていけたからね」

それでも大きな成果を後世に残したことに変わりはない。一方、野球選手・中畑にとって残酷であったのは、この組合創設活動のタイミングが現役時代に最も脂の乗り切った時期にシンクロしてしまったことである。

「今、思うと、あのころの野球選手としての記憶がないんだよ。気持ちとしてはいい打撃成績を上げて交渉のテーブルに着きたかったんだけど、打率も落ちた。でも自分ひとりじゃなくて、12球団の選手の生活を背負っていたからね。十字架とはこういうものかと思いながら、それなりにかたちを残せてよかった。あの野球協約のままだったら、中堅の選手なんか、すぐに終わっていたよ。今は1年がんばれば、すぐに年俸1億円だからね」
 
プロ野球選手会労組結成に向けての事務方のパートナーとして尽力してくれた弁護士の紹介を依頼すると中畑は快諾してくれた。都労委への申請から、その後の交渉までタッグを組んだ法律家は何をどう思って戦略を組んだのか。

「弁護士さんの名前は長嶋(憲一)さんです。名前もいいでしょう」

絶好調男は豪快に笑った。

文/木村元彦

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