史上初の外国出身横綱で、ボブ・サップとの試合で日本の格闘技史上における最高視聴率の記録を持つ第64代横綱・曙太郎さん(享年54歳)が今月上旬に心不全で逝去した。

「紅白」の裏で今も破られていない驚異的な視聴率

ハワイ出身の曙さんは1998年に来日し、東関部屋に入門。同年春場所の初土俵後は、身長204センチ、200キロを超える巨体を活かした突き押し相撲で、1993年初場所後に第64代横綱に昇進した。

若乃花、貴乃花の「若貴兄弟」のライバルとして空前の相撲人気に貢献し、優勝11回の記録を残し、2001年初場所後に引退した。

引退後は、親方として相撲協会に残ったものの、2003年11月に格闘家へ転向するため退職。この年の大みそかにナゴヤドームで開催された格闘技イベント「K-1」で当時、絶大な人気を誇った米国人のボブ・サップと対戦した。

1回KOで惨敗した一戦だったが、NHK「紅白歌合戦」の裏番組となったTBS系列での生中継は瞬間最高視聴率が関東地区で43%(ビデオリサーチ社調べ)と紅白を超える数字を残した。これは「紅白」の裏番組では今も破られていない驚異的な視聴率。曙さんの「K-1デビュー」が21年前の日本列島にどれほどの衝撃を与え、関心を集めたかをこの数字が物語っている。

曙さんを格闘技の世界に導いたのが当時、K-1プロデューサを務めていた谷川貞治氏だった。54歳での急逝に「早いですね。悲しいです」と追悼した谷川氏が曙さんをスカウトした激動の日々の顛末を明かしてくれた。

なぜ谷川氏は大相撲で現役を引退し、親方だった曙さんの「K-1」参戦を思いついたのか?その背景を「2003年は格闘技界にとって激動の年だったことが大きいです」と話す。

 アポなしで打診した曙の格闘家デビュー

その言葉通り確かにこの年の格闘技界は、リング外での激震が続いた。1月に総合格闘技イベント「PRIDE」を運営する会社の森下直人社長が急逝。さらに2月にK-1を主宰していた石井和義氏が脱税事件で逮捕される。さらに選手の引き抜きを巡り「K-1」と「PRIDE」の対立が深刻化した。

格闘技人気は絶頂期にあったが、こうした対立の余波で大みそかは、「紅白」の裏番組として、日本テレビがアントニオ猪木さんが主宰する「猪木ボンバイエ」、フジテレビが「PRIDE」、そしてTBSが「K-1」の生中継と民放キー局をバックに3つの格闘技イベントが「抗争」する異常事態となった。
 

その中で参戦選手、マッチメイクなどで「一番出遅れたのが僕のK-1だったんです」と谷川氏。フジ、日テレ、さらにはNHK「紅白」を視聴率で脅かす目玉カードが組めない状況に一時TBSはK-1番組の放送から撤退を示唆したという。

「TBSから『やめときましょうか』みたいな感じで言われました。ただ、格闘技人気を作ったのはK-1だという自負がありましたから、僕も引くに引けなくなって、そこで思いついたのが曙さんの格闘家デビューでした」

以前から面識があったことに加え、旧知のスポーツ紙記者から曙さんがプライベートで打撃系のジムに通っている情報を得ていた。

「そんな話が僕の頭の中に入っていて、曙さんがK-1で戦えば『おもしろい』と思いました。それと、テレビでの放送を考えると大みそかは、マニアックな選手よりもお茶の間の視聴者をどう引き付けるかが大事だと思いました。
そこで大相撲の横綱だった曙さんは、子どもからお年寄りまで誰もが知っている方。お茶の間で勝負するには曙さんしかいないと確信しました。対戦相手はそのとき、CMに出たりと、やはりお茶の間でも人気絶頂だったボブ・サップと決めました」

思い立ったのは試合から1か月ほど前の11月。谷川氏は、曙さんを口説くため大相撲九州場所を控えた福岡県内の東関部屋宿舎へ「アポなし」で向かった。スポーツ紙記者から携帯電話の番号を教えてもらい、朝稽古が終わるタイミングを見計らって曙さんに電話をかけた。

曙さんの携帯の着信画面には知らない番号が表示されている。コール音が鳴る中、

「たぶん、出ないだろう」

そう思った谷川氏の不安を打ち破るように「もしもし」と曙さんは応答してくれた。

曙さんが第二の人生を「土俵」から「リング」に求めた理由

「K-1の谷川です」とあいさつすると曙さんは「どうしたんですか?」と尋ねてきた。すかさず「今、部屋の前にいます。込み入った話があるので出てきてくれませんか?」と誘うと、曙さんは谷川氏が待つ、近くの電信柱まで歩いてきた。

大みそかまで時間はない。一気に口説き落とすつもりの谷川氏は、ファイトマネー、大みそかでの対戦、相手はボブ・サップと記された契約書を持参し、曙さんに見せた。すると契約書を見つめた曙さんは「ボブ・サップかぁ」とつぶやくと、電信柱に向かって突然パンチを打ち始めた。

「アポなしでの訪問ですし、僕のオファーは笑われるか怒られるかと思っていました。でもパンチを打つ姿を見たとき、『これはイケるかもしれない』と思いました」
 

その夜、博多市内の料亭で会う約束を交わし、改めて個室で対面した曙さんへ正式に谷川氏はオファーした。

「そのとき、格闘技界の現状などいろんな話をしましたけど、僕が強調したことは『奥さん以外の周囲には相談しないでください。大切なのは親方のやる気です』と繰り返しました。なぜなら、周囲に相談すれば99%反対するに決まっています。それよりも大切なのは曙さん自身がやりたいかどうかの意志。ただ格闘技はケガなど危険な世界ですから、奥さんには相談してくださいと伝えました」

この熱意に曙さんの心は角界からK-1へ傾き、デビューへ向けて妻に相談する意向を谷川氏に伝えた。この瞬間、事実上、曙さんの格闘家デビュー、そしてその後のプロレスラーとしての第二の人生が決まったのだ。

当初の契約はサップ戦を含め3試合。ファイトマネーは、当時のK-1戦士と比べ、破格のギャラだった。谷川氏は今、曙さんが第二の人生を選択した理由をこう想像する。

「金銭面もあったとは思います。ただ、それ以上に曙さんの中でもっと輝きたいという思いがあったんだと思います。親方の仕事はもちろん、相撲界では大切ですけど、それ以上にもっと自分の人生を輝いて生きたいと思ったから、決断したと僕は理解しています」
 

迎えた大みそかのデビュー戦。結果は1ラウンドKOで惨敗。それでも視聴率43%の驚異的な数字は、曙さんが新たなステージで輝いた証だった。

2005年からはプロレスラーとなり全日本プロレス、新日本プロレスなどさまざまな団体で活躍した。訃報に際して武藤敬司ら数多くのトップレスラー、団体がSNSなどで追悼の意を表した。

曙さんは、土俵だけでなくリングからも愛された巨星だった。

取材・文/中井浩一