2007年3月27日に亡くなった昭和を代表する大スターの植木等。1960年代初頭からテレビで人気が上昇したクレイジーキャッツ、その最初の爆発を作った植木等の歌う『スーダラ節』の誕生秘話をお届けする。サムネイル/2019年7月24日発売の『植木等「スーダラ伝説」』(ドリーミュージック))

コミックソングが日本で大ブーム

1960年代初頭からテレビで人気が上昇していたクレイジーキャッツ。その最初の爆発は、植木等が歌った『スーダラ節』の大ヒットから始まった。

そこから『ドント節』『五万節』『ハイそれまでヨ』『無責任一代男』とコミックソングがヒットし、加速度的に日本中にブームを巻き起こしていった。

その快進撃を支えていたのは、「植木等」というキャラクターを確立させた、座付き作者・青島幸男による歌詞と、作曲・編曲の萩原哲晶が考え出した破天荒なソングライティングの力だった。

それがテレビ番組と映画とライブを組み合わせたトータル・プロデュースによって、それまで経験したことがない面白さを生み出した。

陣頭指揮していたのが渡辺プロダクションの創始者で、ゼネラル・プロデューサーでもあった渡邊晋である。クレージーキャッツにとって、その存在と指導力は実に大きいものであった。

得も言われぬ”おかしさ”が漂う「スイスイスーダララッタスイスイ」

月曜から金曜まで放送される昼の帯番組『おとなの漫画』の構成作家だった青島幸男は、なかなかいいアイデアが生まれてこないので、毎日のように締め切りに追われて苦しんでいた。

だから安定した身分が保証されているサラリーマンのことを、どこか「気楽な稼業だ」と羨ましがりつつも、一方では宮仕えの立場による息苦しさも考慮して、そこからの解放の気持ちを込めて、「チョイト一杯のつもりで飲んで」から始まる歌詞を書いた。

『スーダラ節』でレコードを出そうとしたとき、二つの選択肢があったという。一つは、実力のあるミュージシャンが揃ったバンドなのだから、常套的に「いい歌を作る」という案。もう一つは、はなから割りきって「売れる歌を作る」という案。

そして選ばれたのは「売れる歌を作る」だった。青島流に言えば、「PTAのおばさまなんかがガタガタ騒ぎ出すようなバカ歌」で、とにかく「バンバン売れる歌を作る」という方針が決まったのだ。

『スーダラ節』が爆発的に受けたのは、どこかしら意味がある前半の歌詞を受けて、後半に展開していく植木等のウキウキしてくるような調子のいい言葉=「スイスイスーダララッタスイスイ」が時流に合っていたからだろう。

このフレーズは意味不明ながらも音楽的にノリがよかったし、得も言われぬ”おかしさ”が漂ってくるものだった。

『スーダラ節』に抵抗があった、生真面目な植木等

そもそも「スーダラ節」は、植木等が機嫌がいいときに発する口癖だった意味不明の「スイスイスイ」や「スンダラダッタ」というフレーズを、歌にしようと考えた渡邊晋が、青島幸男に作詞をさせることを思いついたものであった。

そこから生まれたサラリーマンの生活や気分を綴った歌詞は、「わかっちゃいるけどやめられない」という決めフレーズがハマったことで、流行語になるほどのヒットになって一斉を風靡した。

こうして「無責任男」としてスター街道を駆けていった植木等だが、実は根っから生真面目な性格で、水もしたたるいい男だった。また、ジャズ・ギタリストとしても一流の腕を持ち、かつてはオーソドックスなジャズを志していた時期もあった。

そのために出来上がった『スーダラ節』には抵抗があり、初めのうちは歌うこと自体を嫌がっていたという。

しかし、若い頃から社会主義労働運動や部落解放運動に参加し、戦時中は指導者として何度も投獄されるなど、徹底したヒューマニストであった僧侶の父親に相談すると、「『わかっちゃいるけどやめられない』は親鸞の教えに通じる」との助言をもらった。

そこで意を決して歌ったところ、レコーディングの現場ではミュージシャンが笑い転げてしまってNGが続出。異常なハイテンション状態になったという。
そのときの様子を当事者の青島が語っている。

「歌詞が面白かったのは当然として、萩原哲晶のメロディー、およびアレンジが抜群にスットン狂で、これまでに聞いたこともない様なおかしさだった。植木等がまた、これに輪をかけてフザケていた。途中まで歌ってみては、すぐにフキ出しちゃって、『ケッケッケッ‥‥‥』と例の大声で笑いころげる。何回も真面目な顔に立ち返っては初めからやり直すんだけど (中略) こんなことをえんえんとくり返し、どうやら無事に録音を終了した時は、予定時間を二時間もオーバーしていた」

 ビートたけし、タモリの生き方に影響

そうして出来上がった『スーダラ節』は、1961年8月にリリースされると大ヒットを記録。クレージーキャッツ、そして植木等の人気がここから一気に急上昇する。それまでの日本にはいなかった新しいスターの誕生だった。

翌1962年には、植木等主演の映画『日本無責任時代』が製作。その主題歌として作られたのが「無責任一代男」だ。

子供の頃にこの歌を聴いたタモリは、その歌を座右の銘とするようになったという。ビートたけしも同じく植木等の歌で、人生観を変えられたと述べている。

大瀧詠一はクレージーキャッツのマニアになっただけでなく、無責任ソングのノウハウを身につけて、自らのナイアガラ・サウンドに活かした。

そして座付き作者だった青島幸男は、「こつこつやる奴ア ごくろうさん」と、国会議員から東京都知事になったのである。


文/佐藤剛 編集/TAP the POP

参考文献
「CDジャーナルムック 青島幸男読本」(監修/北中正和・青島美幸)
「スーダラ人生 クレージーキャッツ物語」