2014年11月にBCリーグ所属の福島に「監督兼選手」として入団。現在は「監督兼社長」として奮闘する岩村明憲
2014年11月にBCリーグ所属の福島に「監督兼選手」として入団。現在は「監督兼社長」として奮闘する岩村明憲

【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第3章 福島レッドホープス監督・岩村明憲編

かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は独立リーグで奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第3章はNPB、MLBで活躍し、WBC日本代表としても活躍した現・福島レッドホープス監督、岩村明憲。輝かしい実績を持つスター選手だった岩村は、なぜ今福島で独立リーグ球団の監督をしているのか。その知られざる奮闘ぶりに迫った。(全4回の第3回/前回はコチラ)

■日本のファームにはない、米マイナーリーグの魅力

「アメリカでマイナーリーグの地方球場を見てから、野球に対する見方や考え方も大きく変わったというか。マイナーリーグでも、1万人とか1万5000人を集客できるスタジアムがありました。お客さんは野球観戦だけを目的に来るのではなくて、食事やお酒を楽しんだり、バーベキューをしたり、それぞれ違う楽しみ方を持っていました。

中には選手のホームステイを受け入れているホストファミリーもいて、わが子のように可愛がっている選手が出場するから応援に来る人たちもいました。福島に来たとき、NPBとは違った形で野球の魅力を伝え、球場に来て楽しく過ごせる環境をつくることが、日本の独立リーグでもできるのではないかと思いました」

MLB傘下のマイナーリーグの球団は、トップを目指す選手の育成期間の役割を果たしている点では日本のNPB傘下のファームと同じだ。しかし構造や運営は日米では似て非なるものがある。日本のファームはNPB球団直営で、あくまで一軍の下にある二軍組織。一軍選手にとっては怪我やコンディション不良の調整の場という役割が大きい。

アメリカのマイナーリーグの球団は独立した企業で、MLB球団とは提携契約を結んでいる。MLB球団はドラフトなどで獲得した若い選手をマイナー球団に派遣し、原則、給与や生活費はすべて負担してくれる。マイナー球団にしてみれば、選手の人件費は考えずに済む。球場は地元自治体が所有し、無償あるいは低料金で施設を提供してもらえ、球場で独自イベントも開催できるなど、あらゆる面で経費を抑え、収益を上げやすい仕組みがある。結果、MLB球団のない地方球場でも、地域に根ざした憩いの場、賑わいや交流を創出する「ボールパーク」が存在できるのだ。

「今年、楽天は球団創設20年という節目のシーズン、東北6県すべてで公式戦の主催試合を開催する予定だと聞いています。ただ、年に一度のお祭りとしては良いと思いますが、多くの人は地元では1シーズン1試合しか観戦できない。そうではなく、日常的に『おらが町、おらが村のチームはここにありますよ』という環境を福島に残したい。それが今日まで、歯を食いしばって取り組んできた理由です」

岩村はNPBの1軍、2軍、MLB、マイナー、そして日本の独立リーグと、日米プロ野球の最高峰から麓の球団まで現役選手として在籍してきた。

パイレーツ時代は傘下の3A、インディアナポリスに降格し、バスで9時間の長距離移動を経験するなどメジャーとの格差も経験した。そんなあらゆる経験が、野球を単なるスポーツのひとつとして捉えるのではなく、球団が地元やファン、社会とどのように繋がり、貢献すべきかをより深く考える機会を与えたのかもしれない。

■まずは大きな声で元気をアピール

「今うちにいる選手の最年少は18歳ですが、彼に自分の昔話をするつもりは全くありません。『そこら辺にいるおっさんが教えるけど、多少野球をやっていたから、ちょっと意見を聞いてみな』という感覚で向き合うようにしています。

少年野球をしていた頃に僕の現役時代を見て育った世代には、『プロで多少は結果を残してきた人間が言うアドバイスだから、納得できない部分もあるかもしれないけど、まずは信じて取り組んでみな』と、世代や性格によって伝え方は変えるようにしています」

* * *

2024年3月12日、福島県双葉郡楢葉町「ポニーリーグならはスタジアム」――。

快晴だった前日とは一転、空は厚い雲に覆われ小雨が混じり、午後からは本降りの予報だった。午前8時に球場を覗くと、この日も早出練習に励む若手選手に付き合う岩村の姿があった。

「いーっち! にーっ! さーんっ!」

額に大粒の汗を浮かべ、大きな声で回数を数えながらスクワットを延々繰り返す3人のキャッチャー。正面に立ち、どこか嬉しそうに笑顔で見守る岩村。時々、自身も腰を落として軽くスクワットしながら、「もう限界か?」と冗談混じりに問いかけ鼓舞した。

「はいっ、おつかれさま」

スクワットが終わると次は別グループの走塁指導に向かった。自らトンボでグラウンドの土を慣らし整えると一塁ベース付近に選手を集め、走塁を待つ間の注意点、リードの距離や方法、走塁のタイミング、スライディング時の注意点など、お手本を交えつつ細かく指導した。

走塁やバッティングなどメジャー仕込みの技術を丁寧に教える岩村
走塁やバッティングなどメジャー仕込みの技術を丁寧に教える岩村

仕上げは打席からホームまで全力疾走で生還するベースランニング。選手は大きな声で気合を入れ、小雨で湿った土をスパイクで削るように踏みしめ、駆け抜けた。

「技術があり、いろいろなことがパフォーマンスとして出せるのであれば、大きな声出しなど別に必要ありません。でも技術がなければ、大きな声でコミュニケーションを取らなければいけない。阿吽の呼吸でプレーできる技術があればいいけど、今はまだ難しい。だったらまずは元気をアピールして、仲間に『あいつは必死に頑張っているのだから、ミスをしてもフォローしよう』と思ってもらえることが大切だと思います」

■岩村監督を地元に凱旋させよう

岩村には昨シーズン、選手により愛情を注ぎたくなる出来事があった。

「昨年、独立リーグ日本一を決めるグランドチャンピオンシップが、自分の故郷、愛媛で開催されました。選手たちは、『岩村監督を地元に凱旋させよう』と戦ってくれました。目標は叶いませんでしたが、選手たちがそう思いながら頑張ってくれたことが嬉しかった。

共通の目標をひとつでも持って、全力でそれに向かって突き進む。若い二十歳前後の時期、そういう経験があっても良いのではないでしょうか。野球選手でいられる、今しかできないことですからね。僕自身はそれを全力でサポートしてあげたいと思っています」

2023年シーズン、福島レッドホープスは北地区3位(27勝36敗)と苦しい成績に終わった。そんな中、岩村が3年間向き合い、じっくりと育てた大泉周也が、ソフトバンクから育成ドラフト1位で指名されNPB入りを果たした。

高校時代(山形中央)は通算53本塁打を記録した大泉。しかし社会人(日本製鉄鹿島)に進んでからは目立った実績は残せず、3シーズンを終えたとき、社業に専念するよう勧められた。安定したサラリーマン生活を選ぶこともできたが夢を諦めきれず、周囲の反対を押し切り練習生として福島レッドホープスに入団した。そして岩村と出会い、打撃指導を受けて才能を開花させた。

入団1年目(2021年)は51試合に出場して2本塁打。2年目は24試合に出場して3本塁打と、すぐには結果は出なかった。しかし勝負をかけて挑んだ3年目の昨シーズン、努力はようやく実を結んだ。6月に打率.448、4本塁打、14打点を記録し月間MVPを受賞する活躍を見せると、最終的には61試合出場で打率.349、16本塁打、52打点を記録し本塁打王にも輝いた。

大泉は「ピッチャーの足元に強い打球を打て」という岩村のアドバイスを愚直に守り続けた。また岩村の薦めで秋山翔吾(広島)の自主トレに参加できたことも成長につながった。ソフトバンクの担当スカウトに「おもしろい選手がいるから見ていってください」とアピールし、注目される最初のきっかけを作ってくれたのも岩村だった。

ソフトバンクの若手が過ごす若鷹寮に入寮する際、大泉は「誰よりも振り込め」と岩村から贈られたバットを持ってきた。あるインタビュー記事で大泉は、「魂がこもっているので、折りたくない。なかなか使えない」と話し、「調子が上がらないときだけ使います」と答えていた。

福島レッドホープスの楢葉キャンプ――。

チームOBの畠山氏から伺ったように、練習は気迫溢れた密度の濃い内容で、岩村の指導からも「ひとつのミスも許さず、ひとつのプレーもおろそかにしない。そのために何事も全力を尽くす」という緊張感が伝わってきた。厳しくも温かい眼差しで見守る岩村の姿を見ていると、高校野球界の名将が思い浮かんだ。

宇和島東を11回、済美を6回、甲子園出場に導いた上甲正典監督。岩村にとっては生涯忘れることのできない「野球人としての原点」とも言える恩師だ。

(つづく)

●岩村明憲(いわむら あきのり)
1979年2月9日生まれ、愛媛県出身。宇和島東高校から96年ドラフト2位でヤクルト入団。ベストナイン2度、ゴールデン・グラブ賞6度受賞。2007年にデビルレイズ(現レイズ)に移籍。パイレーツ、アスレチックスでもプレーし、11年から楽天、13年からヤクルト、15年からBCリーグ・福島で選手兼任監督。17年に現役引退して以降も、監督兼球団代表として福島で奮闘の日々を送っている

取材・文・撮影/会津泰成