2024年2月2日(金)に『猿若祭二月大歌舞伎』が歌舞伎座で開幕した。「十八世中村勘三郎十三回忌追善」と銘打つ興行で、大間(1階ロビー)には祭壇が用意された。十八世勘三郎の写真の前でお香がたかれ、手をあわせる人や写真に納める人の姿が絶えなかった。2階ロビーには十八世勘三郎を偲ぶ写真が展示されている。

「昼の部」で上演された『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん) 野崎村』、『釣女(つりおんな)』、『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』をレポートする。

『新版歌祭文 野崎村』

中村鶴松は、十八世勘三郎に才能を見いだされ、10歳で十八世勘三郎の部屋子となった。それ以前より子役として歌舞伎公演に出演していたが、いわゆる「一般家庭」の子だ。そんな鶴松が十八世勘三郎ゆかりの俳優たちに囲まれ、世話物の名作『野崎村』でヒロインを勤める。

お光(鶴松)は、百姓の父・久作(坂東彌十郎)と暮らしている。病気の母は奥の部屋で休んでいる。この日、お光はうきうき、そわそわと落ち着かない。なぜなら許婚の久松(中村七之助)と、まもなく祝言をあげることになったからだ。しかし久松は、奉公先の油屋の娘・お染(中村児太郎)と深い仲になっていた。お染は、久松を追いかけてきて……。

昼の部『新版歌祭文 野崎村』(左より)久作娘お光=中村鶴松、百姓久作=坂東彌十郎、(後方)丁稚久松=中村七之助 /(C)松竹

昼の部『新版歌祭文 野崎村』(左より)久作娘お光=中村鶴松、百姓久作=坂東彌十郎、(後方)丁稚久松=中村七之助 /(C)松竹

お光は、暖簾口よりパッと登場する。その愛らしさに一瞬で心を掴まれた。料理の仕度をしながらも、ふと髪を気にしたり、眉を隠して人妻気分を想像したりする。そんな微笑ましさもおかしさも、鶴松はきっちりと観客に伝え、飽きさせない。包丁で野菜を切る音が、義太夫の語りのもっと遠くから聞こえてきた。幸せな空気を含んだ生活感が心地よかった。

七之助の久松は、気づいた時にはモテてしまうのであろうな……と想像してしまう若さと美しさ。お金の紛失に巻き込まれるのも不思議ではない、ふんわりしたキャラクターだった。児太郎のお染は、義太夫にのって古風な魅力をふりまくお嬢様。お光よりも、よほど追い詰められた状況にありながら、年齢とは別の基準で、常にお光よりもどこか“上”だと感じさせる。児太郎は、そんなお染を少しの嫌味もなく立ち上げる。彌十郎の久作は、人間味に溢れていた。養子の久松、後妻の連れ子のお光。どちらをも思い、思うからこその悔しさや切なさが滲みだす。中村東蔵の油屋後家のお常の血の通った説得力が、世話物らしさを底上げした。

昼の部『新版歌祭文 野崎村』(左より)久作娘お光=中村鶴松、百姓久作=坂東彌十郎 /(C)松竹

昼の部『新版歌祭文 野崎村』(左より)久作娘お光=中村鶴松、百姓久作=坂東彌十郎 /(C)松竹

お光は胸にぽんと手をあて、自分の足で立ち、ふたりを見送る。気丈に振舞う、と決めた彼女をただただ見守ることで、観客はお光に寄り添った。幕切れで久作は、お光の手から落ちた数珠を拾ってやる。その数珠の音が聞こえるほど、場内は静まり返っていた。残された親子の哀れが、梅の木にかかった凧さえ寂しくみせた。最後の最後、お光の我慢が決壊し、つられて涙がこぼれた。「中村屋!」の声と大きな拍手で結ばれた。

『釣女』

狂言の『釣針』を題材に、明治時代に作られた松羽目ものの一幕。

そろそろ妻をめとりたい、と考える大名に中村萬太郎。朗らかで品が良く、舞台が明るくなる。お供の太郎冠者に中村獅童。ふたりは夢のお告げで授かった釣竿でそれぞれ妻を釣り上げる。大名が釣ったのは、美しい上臈(坂東新悟)。新悟の上臈は、お伽噺にも登場しそうな美女だった。

昼の部『釣女』(左より)太郎冠者=中村獅童、大名某=中村萬太郎 /(C)松竹

昼の部『釣女』(左より)太郎冠者=中村獅童、大名某=中村萬太郎 /(C)松竹

これに続き、獅童の太郎冠者も妻を釣り上げる。被衣をあげると、こちらは醜女(しこめ)だ。文字通り不美人として表現されるが、醜女本人はエネルギッシュで幸せオーラ全開。勤めるのは中村芝翫。チャーミングな芝翫の醜女に、獅童の太郎冠者が翻弄される様が楽しかった。ラストに醜女は、釣り糸をくわえた太郎冠者を従え、花魁道中さながらの華と風格でゆったりと退場。

昼の部『釣女』(左より)醜女=中村芝翫、太郎冠者=中村獅童 /(C)松竹

昼の部『釣女』(左より)醜女=中村芝翫、太郎冠者=中村獅童 /(C)松竹

古典の中で醜女と名付けられている以上、醜女は醜女なのだけれど、醜さよりも明るくパワフルな印象が先だつ彼女には、なにかもっと素敵な名があるといいなと思われた。どちらの夫婦にも、末永く幸せに暮らしてほしい。

『籠釣瓶花街酔醒』

佐野次郎左衛門に中村勘九郎。兵庫屋お抱えの遊女八ツ橋に中村七之助。ふたりが初役で挑む。

客席は、暗転から一気に江戸吉原の仲之町へ。目の前に表れた華やかな光景に、ワァ! という歓声とともに客席の空気が華やぐ。すると花道より佐野次郎左衛門(中村勘九郎)と下男の治六(中村橋之助)がやってくる。ふたりにとって初めての吉原。我々観客と同じく「わぁ!」と興奮気味。いかにも不慣れで、さっそく“カモ”にされかけたところを、立花屋長兵衛(中村歌六)に救われる。

吉原見物に満足し「さあ、帰るか」というところで、金棒の音とともに運命を変える出会いが近づいてくる。錦絵のような花魁道中だ。

まず舞台上手から中村芝のぶの七越花魁。続いて花道から中村児太郎の九重花魁。ため息に次ぐため息、拍手に次ぐ拍手。さらに客席上手側で起きたどよめきと拍手が、歌舞伎座全体へ広がった。桜が並ぶ舞台正面から、七之助の八ツ橋の花魁道中がやってきた。

昼の部『籠釣瓶花街酔醒』(左より)佐野次郎左衛門=中村勘九郎、兵庫屋八ツ橋=中村七之助 /(C)松竹

昼の部『籠釣瓶花街酔醒』(左より)佐野次郎左衛門=中村勘九郎、兵庫屋八ツ橋=中村七之助 /(C)松竹

八ツ橋と次郎左衛門がぶつかり、目を合わせ、時間が止まり、八ツ橋はまた動き出す。一瞬の出来事をクローズアップしてみせる見染め。そのまま行ってしまえば、話はここで終わっていた。しかし八ツ橋は足を止める。場内は、時間が止まったような静けさに。八ツ橋がゆっくりと目線を次郎左衛門へ。無音のまま微笑み、居合わせたすべての人を腑抜けにして去っていった。

共演は、八ツ橋の親代わりの釣鐘権八に尾上松緑。お金の無心に頭は下げるが、まるで悪びれる様子のないヤクザな遊び人だ。引手茶屋の立花屋夫婦に中村歌六と中村時蔵。立花屋はさぞしっかりした店にちがいない、と思わせる。八ツ橋の間夫・栄之丞に片岡仁左衛門。トップ花魁とお似合いの美男だ。八ツ橋に養われ、釣鐘権八に簡単に騙される頼りなさは、純粋さと表裏一体。贅沢な配役に、松嶋屋! 播磨屋! 萬屋! 音羽屋! そして中村屋! と数々の大向うがかかり、芝居を盛り上げていた。

やがて上客となった次郎左衛門。身請けの話も進んでいるらしい。それでも次郎左衛門は、八ツ橋を“売り物、買い物”と平気で言う。そんな世界だからこそ、八ツ橋にとって、お客ではない栄之丞との時間は、生きがいだったにちがいない。栄之丞の前では、恋にすがるひとりの人間だった。愛想尽かしの後の八ツ橋の背中には、遊女の悲哀が溢れていた。

昼の部『籠釣瓶花街酔醒』(左より)兵庫屋八ツ橋=中村七之助、繁山栄之丞=片岡仁左衛門 /(C)松竹

昼の部『籠釣瓶花街酔醒』(左より)兵庫屋八ツ橋=中村七之助、繁山栄之丞=片岡仁左衛門 /(C)松竹

お芝居の後半、勘九郎の次郎左衛門もまた、歌舞伎座を静寂に包んだ。七之助が恍惚感で観客の言葉を奪ったのだとしたら、勘九郎は殺気で客席を黙らせた。「籠釣瓶」という名の業物が、次郎左衛門を誘(いざな)った瞬間は凍り付くような緊張感。八ツ橋がしなだれかかるように倒れる時、観客に涙を流す隙さえ与えなかった。

次郎左衛門の顔には、あばたがある。直視をためらうほどの痕だ。しかし、そんなことより寛大で理性的で心意気があって……という面から彼を語りたかった。何より本人が、顔のことなど気にしていないかのようだったから。しかし、それは間違っていた。廓という別世界に絢爛豪華な着物をまとった美しい遊女がいて、色男の間夫がいて……。そこに迷い込んだ次郎左衛門が心に押し込めていた闇の気配をたしかめに、またすぐに観なおしたくなる舞台だった。
 

公演は2月26日(月)まで。「夜の部」では、中村勘九郎の長男・勘太郎と次男・長三郎がそれぞれに大きな役に挑んでいる。別記事にてレポートする。

取材・文=塚田史香