フォアハンドのリターンを打ち込むや、美しい放物線を描くボールの軌跡を眺めつつ、彼は両手を大きく広げた。

 ウイナーを確信し、客席の方へクルリと身体をひるがえす。胸を張り、あごを少し上げて広げる無邪気な笑みは、まるでテニスを始めたばかりの少年のよう。

 グランドスラム(四大大会)単複50の優勝を誇る国枝慎吾氏が、コートへと帰還した。もっとも、公式戦ではない。現在開催中の「マイアミ・オープン」(アメリカ/ハードコート)の会場で開催された、エキジビションイベントではある。アメリカ国内での、車いすテニスの知名度向上を狙ったこのイベントで、国枝氏はディレクターを務め、なおかつ選手としても参戦。現世界1位のアルフィー・ヒューエットと繰り広げた極上の攻防は、車いすテニスが今どこにいるかを示す、格好のステージとなった。

 国枝氏が突如として引退表明をしたのは、昨年の年明け早々。時の世界1位の退席により、繰り上がりで世界1位に座したのが、英国のヒューエットだ。その後、「国枝の後継者」こと小田凱人に頂点を奪われもしたが、その小田にも現在連勝中。1位の座も奪還し、意気揚々と挑んだのが、今回のマイアミだった。
 
 ところがその舞台で、かつてのライバルであった国枝氏が、目の前に立ちはだかる。しかも楽しそうにコートを駆け、強打のみならずドロップショットやロブを繰り出してくるのだ。試合終盤、ヒューエットはコートサイドで観戦する盟友のゴードン・リード(イギリス)に、「シンゴのプレーはあり得ない! ダブルフォールトを1本もしていなんだぞ!」と引きつった表情で叫ぶ。そこには、エキジビションならではの弛緩は一切存在しなかった。
  試合を通じ切れ味を増していった国枝氏のリターンは、勝利を決する、とどめの刃となる。チェアを漕ぐ手に力を込め、向かい来るサービスのバウンド地点へと加速すると、跳ね際のボール目掛け右腕を一閃。スコアは、6-7(3)、6-3、6-3。辺り一面をオレンジ色に染めていたフロリダの西日も沈み、濃紺となった天に勝者は両手を突き上げた。

「勝っちゃいましたねぇ」

 試合後の国枝氏は、うれしいような、少しばかり気まずそうな笑みを広げた。

「まあ、失うもの何もないので。現役の時とは違って、肩に力が入ってない状態というのは、ちょっと僕にアドバンテージもある。スコアが実際の力の差じゃないです」

 そう現世界1位を慮るも、「すごい試合でした」と伝えると、「本当ですか! うれしいですね」と、また笑顔を輝かせた。

 今年1月末より国枝氏は、フロリダ州オーランドに移住。USTA(全米テニス協会)ナショナルトレーニングセンターで「アドバイザー」として選手指導にあたりつつ、選手が遠征等でいなくなると、「自分の練習も結構している」と笑った。

 指導者として、大会ディレクターとして、そして車いすテニスの魅力の体現者として――。新たなチャレンジを見つけた40歳の生きるレジェンドは、笑顔輝かせ未踏の荒野を切り開いていく。

現地取材・文●内田暁

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