東京の女性は、忙しい。

仕事、恋愛、家庭、子育て、友人関係…。

2023年を走り抜けたばかりなのに、また走り出す。

そんな「お疲れさま」な彼女たちにも、春が来る。

温かくポジティブな風に背中を押されて、彼女たちはようやく頬をゆるめるのだ――。

▶前回:「このまま結婚していいのかな」赤坂のタワマンに住む自慢の彼だけど、裏では…。29歳女の悩み



瑠衣(29) 執着しすぎって、わかってるけど…


平日の21時。

実家の2階にある自分の部屋でInstagramを見ていた瑠衣は、驚いた。

母親が入れてくれたココアを片手に、スマホにかじりつくように投稿を見る。

年上経営者と付き合っていた友達・千佳が、破局したらしい。

最新の投稿には「別れて、好きなことに邁進!」との文字があった。

― ふーん…きっと落ち込んでるだろうなあ。

ハイスペックな男性との別れほど、痛いものはない。

瑠衣はちょうど2年前に経験した、元カレ・壮一郎との出来事を思い出す。



壮一郎とは、六本木で開かれた食事会で出会った。

大手コンサル勤務、年収1,700万。高身長、イケメン。

一目で恋に落ちた瑠衣は、自分の美貌を武器に近寄り、壮一郎と頻繁に会う関係になった。

案外押しに弱い壮一郎の家に半同棲というかたちで住み込み、あらゆる家事を手伝う。疲れて帰宅する彼をマッサージし、ねぎらいの言葉をかける日々。

― 壮一郎がいてくれれば、私の人生はそれでいいかもしれない…。

もともと瑠衣は海外志向が強く、外資系製薬メーカーにMRとして勤務しながら毎日必死だった。

「海外で暮らしたい」という目標があり、20代のうちにどこかの国に転勤できるよう、社内にも希望を伝えていた。

しかし、実力主義の会社。同期のレベルは瑠衣より遥かに高く、転勤の枠はなかなか回ってこない。

― このままじゃ、埋もれる。もっとしっかり働かないと。

自分を鼓舞するが、どこか疲れきってしまった、そんなとき。壮一郎に出会ったのだ。

忙しく働く壮一郎は「こんなに尽くしてくれる子はめったにいない」と頬をゆるませてくれる。

仕事では自分に自信を失うばかりだったからこそ、彼から褒められるのが瑠衣の生きがいになった。

― 私の生きがいは、壮一郎。

そう思うことにしたら、入社以来抱えていた肩の荷が下りた気がした。

そんな暮らしをして1年。

瑠衣が27歳のとき、表参道のオープンカフェで、壮一郎は突然言った。


「ごめん俺、浮気した。もう別れよう」

瑠衣は、血の気が引く。

ケーキを食べるために手に持っていたフォークが、ガラスのテーブルの上にカランと音を立てて落下する。

気持ちを落ち着かせるように、ペーパーナプキンで上品に口元をぬぐい、瑠衣は笑顔を作った。



「え、浮気?…そんなの許すよ」

「は?」

「1回くらい、仕方ないもの。教えてくれたから、許す。だから別れるとか、そんなこと言わないで…」

すると壮一郎は、不愉快そうにため息をついた。

「そういうところだよ。瑠衣は優しくていい子だ。でも、あまりに献身的で、下手に出てくるから、なんか疲れる」

ここからは記憶が曖昧だ。

なんとかして引き留めようといろいろな言葉をかけたが、そのたびに逆効果になった。

最終的には、悔しくて、泣きながら壮一郎にリングを投げつけたのを瑠衣は覚えている。

半同棲が始まった頃に買ってもらい、Instagramに嬉々としてアップした、ハリー・ウィンストンの指輪。

壮一郎は、表情ひとつ変えずに「ごめん」と再び言った。



― あーもう、忘れたいのに!

瑠衣は、首をブンブン振る。

もう2年も経つというのに、未だに忘れられないのだ。

特に瑠衣が忘れられないのは、壮一郎と交際していた頃のInstagramの反響だ。

高級リゾートホテルの投稿や、会員制レストランの投稿。

憧れ、羨望、妬み。あらゆるリアクションが瑠衣の自尊心を満たした。

最高潮に気分が高まったのは、半同棲を始めた頃にもらった例のハリー・ウィンストンの指輪を投稿したときのこと。

コメントが100件以上ついて、LINEのメッセージが何十通も来た。

「婚約じゃないのにハリーの指輪もらったなんてすごい!」

「すごい人と付き合ってるんだね」



しかし、壮一郎にふられてしまった。

投稿を泣く泣くすべて消しながら、瑠衣は自分に言い聞かせた。

― そもそも、あんなラグジュアリーな暮らしは身の丈に合わなかったんだ。次は、堅実で優しい相手と恋愛する。

そして海外転勤を目指してまた仕事を頑張ろうと決め、スイッチを切り替えた。

母親が作った甘いココアに口をつけると、LINEが鳴る。

今の彼氏・晃汰からだ。

『晃汰:今日は14時に東京駅ね。皇居まで歩いて、お花見しよう』

晃汰とは通っていたジムで出会った。気づけば、もうすぐ交際1年を迎える。

人材系IT企業で営業として働く彼は、優しくて爽やか。収入は、瑠衣が聞いている限り壮一郎の3分の1にも満たないが、マメな性格で仕事熱心。

まさに壮一郎と別れたときに欲していた通りの“優しくて堅実な相手”だ。

― ただ、問題がある。

問題。

それは瑠衣が結局「あの頃のキラキラした暮らし」を忘れられていないことだ。

昨年秋頃、瑠衣はそれを痛感した。

晃汰と女性誌のウエディング特集を見ていたときのこと。

「ひええ、ハイブランドの婚約指輪って、ホント高いね。僕、結婚することになっても、こういうのは買えないかもな」

顔を歪めながら苦笑いする晃汰。瑠衣は「高いよね」と同調したものの、その瞬間、ふいに壮一郎が恋しくなった。

― 晃汰と真剣に付き合ってるはずなのに、こんなことを考えてしまうなんて…。

スイッチを切り替えたつもりが、一度経験したラグジュアリーな暮らしはなかなか忘れられない。

Instagramで誰かがきらびやかな投稿をしていると、瑠衣は「自分もこういう暮らしだったはずなのに」とどこかでモヤモヤしてしまう。

不誠実で、無意味な欲だとわかっているのに、どうしても囚われてしまうのだ。

― せめて私の仕事が好調だったら、自分で豊かな暮らしができるんだけど。

瑠衣は「同期に勝って海外に行く」と頑張ってきたものの、成績は伸び悩んでいる。次の4月からの異動枠は、別の同期にとられてしまった。年収も下がった。

― なんだかなあ。


実は、3ヶ月前に実家に戻ってきたのも、お金のためだ。

余裕がないなかで賃貸にお金を使うくらいなら、いつか晃汰と結婚することになったときの結婚資金を貯めておこうと思ったのだ。

「もちろん、晃汰のプライドのために、お金のためは言ってないけど…」

神楽坂に借りていた家を引き払って、横浜で暮らす――自分で勝手にした選択なのに、瑠衣はどこかでモヤモヤする。

もっと豊かな相手だったら…という思いが消えない。

― 今の自分、最低だ。



東京駅の丸の内駅舎前。

約束のデートにやってきた瑠衣は、晃汰と散歩する。

暖かくのどかな日だ。春らしい風が吹いて、花粉で鼻がムズムズする。瑠衣は、白いドレスを着た人がいるのを見つけた。

「あ、あれ、前撮りじゃない?」

「ほんとだ。きれいだね」

「…ねえ、晃汰。結婚について正直どう思ってる?」

いいタイミングなので、晃汰の気持ちを探ってみようと瑠衣は思った。

晃汰はうーんと唸り、空気がにわかにこわばる。

「あのさ、こんなこと言ったら悪いかもしれないけれど。…僕と瑠衣、本当に合うのかな」

― まさか。

瑠衣は勝手に、晃汰と自分は順調だと思っていた。

混乱しながら「なんで?」と問いかける。

すると晃汰は歩みを止める。

「瑠衣は、僕で満足できるの?」

「え?」

「僕と結婚したいって、本心から思う?」



「瑠衣の喜ぶこと、たくさんしてあげたいって思うんだけど…。でも、僕は多分、そのほとんどを叶えてあげられないよ?」

晃汰は、ポツポツと続ける。

「瑠衣がよく観てる高級リゾートホテルのYouTubeとか、高級レストランばかり載った雑誌とか。そういうのが、プレッシャーなんだよ」

「え?」

「去年の秋さ、2人で、雑誌に載ってる婚約指輪を見たろ?あのとき瑠衣は、3ケタするやつばかり指さしてて、やっぱりプレッシャーで」

肩を落とす彼に、瑠衣はつい口を開く。

「ごめん。…でもほら、今実家に戻ってるのは、実はそういう貯金のためなの。だからあなたはプレッシャーなんて感じなくて大丈夫だよ」

「…ああ、やっぱりそうだよね。うすうす感づいてた」

自嘲気味に笑う晃汰を見て、余計なことを言ったと瑠衣は焦る。

「僕の力量不足で引っ越しまでさせて、ごめん」

「いや…ていうか別に、晃汰といられれば私、どんな暮らしでもいいし…」

取ってつけたように響いたセリフ。言いながら、瑠衣は自問自答してしまう。

― 本当に?

自分にとっての幸せが何か、よくわからない。そんな瑠衣を見透かしたように、晃汰は穏やかに言う。

「どんな暮らしでもいいなんて、思ってないでしょう。僕にはわかる」

しまいに晃汰は、言った。

「僕ら、合わないと思うんだ。…なかなか言い出せず、こんなかたちで伝えてごめん」

瑠衣は、トボトボと去っていく晃汰を引き止められなかった。

気が動転していたからか、それとも晃汰のことを本当は愛していなかったからか。瑠衣にはわからない。

笑顔で前撮りをしている見知らぬ花嫁が、ものすごく遠い存在に見えた。





1年後。

高速バスに乗って、瑠衣は成田空港に向かっている。

東京駅デートの直後、瑠衣は晃汰に改めて振られてしまった。「お互い、別の人を探したほうが幸せだって確信してる」と晃汰はきっぱり言った。

― 私、一体なにしてるんだろう。

別れてから瑠衣は猛省し、自分はどうしたいのか真剣に考えた。

そして結局、キラキラした暮らしをどこまでも諦めきれない自分を、ようやくはっきり自覚したのだった。

とはいえ、そんなに都合よく壮一郎のような男性は現れない。

― この先もし現れても、アラサーの自分を好きになってくれるとは思えないし。

状況的に「人生詰んだかも」と思うものの、憧れてしまうものは仕方ないと諦めてもいる。

モヤモヤをぶつけるように、瑠衣は仕事に精を出した。

結果、少しずつだが周囲から評価されるようになってきた。

そして、人事に「私にやらせてください」と懇願し、今回、1ヶ月半のバンコク出張が決まったのだ。

「人手不足だから激務ですよ」と人事に念押しされた瑠衣は、きっと大変な日々になると覚悟している。

滞在するホテルも、治安のいいエリアにあるものの、狭い。

― 正直、不安のほうが大きいな。でも、今後のキャリアの足がかりにしたい。

初の海外出張。思い描いていた輝かしいものにはならなそうだ。でも、だからこそ、自分の中で何かが変わるのではないかと、瑠衣はすがるように願っている。

― 帰ってくる頃に、新しい幸せのかたちがちょっとでも見えてたらいいけれど…。

“キラキラ”への依存から抜け出せる日は、果たして来るのだろうか。

考えながら、瑠衣は窓の外を見る。

バスは、成田インターチェンジを抜けていく。


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