【達川光男 人生珍プレー好プレー(49)】今年1月下旬にスタートした当連載も終盤戦に差しかかってきました。ここからは現役晩年の話を中心にお伝えしたいと思います。

 私にとってもチームにとっても“激動の1年”となったのが1991年でした。なかでもショッキングだったのは津田恒実の病気離脱です。89年には12勝5敗28セーブ、防御率1・63の好成績で最優秀救援投手のタイトルも獲得しましたが、翌90年は右肩痛や左ヒザの故障から4試合の登板にとどまり、オフに入ると頭痛などの体の不調も訴えていました。

 それでも再起にかける思いは強く、首脳陣もV奪回への切り札として大野豊との「ダブルストッパー構想」を掲げてシーズンに臨んだほど。しかし、津田に襲いかかっていた病魔は本人や周囲が思っていた以上に深刻だったのです。91年最初の登板となった4月9日の中日戦では3―2の9回から登板して大豊泰昭に同点ソロを被弾。同14日の巨人戦では1―0の8回から投げて先頭の川相昌弘に右前打、ブラッドリーには死球を与え、暴投を挟んで原辰徳に三遊間を破られて降板し、これが現役最後のマウンドとなってしまいました。

 津田というのは、ひょうきんな男でね。お人好しでかわいげもあって、みんなから愛されていましたよ。いつだったか、彼の地元である山口の徳山市野球場、現在の「津田恒実メモリアルスタジアム」でバッテリーを組んだときには登板前にサインの打ち合わせをしようと思ったら、笑顔でこう言うたんです。

「今日は親が見に来ているんです。ほら、バックネット裏のあそこ。うちの母は立子(たつこ)という名前で、達川さんと同じ『たっちゃん』なんですよ」

 それがマウンドでは、皆さんもご存じの通り真っ向勝負。並み居る強打者にも一歩も引かない。変化球のサインにも首を振ってストレートを投げ込むような投手でした。まだ抑えになる前の83年でしたかね。巨人のスミスを内角の剛速球でのけぞらせて「F」から始まる放送禁止の4文字言葉を叫ばれたこともありました。メジャー通算2020安打、314本塁打のレジェンドが感情をむき出しにしてね。阪神のバースも甲子園球場で3球三振を喫した際に「クレイジーボール」と絶句していました。

 津田には細身のイメージを持っている方も多いと思いますが、実はすごい筋肉の持ち主だったんです。いつだったか、大分でのリハビリ中にプロレスラーから驚かれたこともありました。医師から「カープの津田くんです」と紹介されるや、アントニオ猪木さんに「いい体をしているな。野球を辞めたら俺のところに来い」とスカウトされたりね。ウエートトレーニングのやり過ぎで筋肉がつきすぎて、肩が回らなくなったことがあったのも津田らしいエピソードです。

 常に周囲への感謝を忘れず、それでいて誰よりも責任感が強い。次回はそんな一面も紹介したいと思います。