【達川光男 人生珍プレー好プレー(55)】いろいろあった1991年には、もう一つ忘れてはならないことがありました。6月5日の横浜スタジアムでの「サヨナラインフィールドフライ事件」です。

 2―2の9回一死満塁から清水義之が紀藤真琴の投じたスライダーを打ち上げ、打球は三塁線の本塁寄りに高々と舞い上がりました。私は三塁側ベンチのほうを向いて捕球体勢に入りながらも打球を捕らず、ワンバウンドしてから捕ってホームを踏み、一塁へと転送。頭脳的なプレーで最大の危機を脱したと悦に入っていたら、三走・山崎賢一の生還が認められてサヨナラ負けしてしまったのです。

 実は打球が上がった時点で球審が「インフィールドフライ・イフ・フェア」を宣告されていて、フライを打ち上げた清水はアウトになっていました。走者をアウトにするにはタッチする必要があったわけです。野球未経験者には分かりにくい話かもしれませんが、少年野球でも教わるルールで当日夜のスポーツニュースや翌日のスポーツ紙でも「信じられないプレーだ」と糾弾されました。

 そんな珍プレーをしでかした翌日の同カードでのことです。5―4の9回に登板し、当時のプロ野球タイ記録である10試合連続セーブを達成した大野豊がヒーローインタビューで「私がこういう記録を作ることができたのも、いつも達川がしっかりリードしてくれるおかげです」と言ってくれたのは…。

 汚名返上を期して臨んだ試合で、私は2―2の4回二死満塁から走者一掃の3点二塁打を放って意地を見せました。そんな必死な姿に、大野も感じるところがあったのでしょう。思い違いで大恥をかいた翌日のことで、救われた気持ちになったものです。

 大野とは同じ55年生まれ。でも、最初から今のように仲が良かったわけではないんです。島根の出雲商高から出雲市信用組合での軟式野球を経て76年のドラフト外で入団した大野は、県立広島商高時代に夏の甲子園での優勝経験もある私に、エリート街道を歩んできた自分とは違う世界の人間という印象があったそうです。

 私が入団1年目の78年に二軍スタートだったのに対して、大野は初の開幕一軍入り。しかし不思議なもので、私がプロ初出場した7月7日の阪神戦でプロ初安打した直後の9回に登板したのが大野だったんです。七夕の日にね。

 その78年から大野は江夏豊さんの指導を仰ぎながら、めきめきと頭角を現していました。79年には主に中継ぎでリーグ最多の58試合に登板。80年も49試合に投げて7勝2敗1セーブ、防御率2・71と安定感も増していました。一方の私は水沼四郎さんや道原裕幸さんに次ぐ3番手捕手で一軍と二軍を行ったり来たり。80年は一軍出場も9試合にとどまり、公式戦でバッテリーを組む機会も限られていました。だから当時は大野も一人のチームメートという存在だったのです。

 距離が縮まったのはリリーフエースの江夏さんがトレードで日本ハムに移籍され、その後釜に大野が指名された81年以降のことでした。