【多事蹴論86】五輪メンバー入りに懸けた男の壮絶な決断とは――。2012年ロンドン五輪で5大会連続9度目の出場を狙う日本はアジア2次予選を順当に突破し、11年9月から始まるアジア最終予選に進出した。同組となったシリア、バーレーン、マレーシアとホーム&アウェーの総当たりで激突。12年3月14日のバーレーン戦に2―0で勝利を収め、5勝1敗の勝ち点15で見事にロンドン大会の切符を勝ち取った。

 五輪サッカー男子の本大会登録メンバーは18人。23歳以下のメンバーを中心にオーバーエージ枠で3人まで選出が可能となっていた。通常23人登録のW杯より狭き門となる一方、U―23日本代表の活動はA代表と違って五輪期間中もリーグ戦は中断されない。そこで日本サッカー協会とJリーグは特定のチームが大幅に戦力ダウンするのを避けるため、本大会登録メンバーの選出を1クラブから3人までとすることを決定した。

 この方針に苦悩したのは当時19歳の五輪代表候補でC大阪に所属していたFW杉本健勇だ。同クラブには五輪チームで不動のレギュラーとして活躍するMF清武弘嗣、MF山口蛍、MF扇原貴宏が所属しており、3人ともロンドン行きが確実視されていた。杉本も候補ながら仮に好パフォーマンスを見せたとしても「1クラブ3人まで」の規定により、メンバー入りは絶望的な状況だった。

 そこで杉本は重大決断を下す。すでにシーズンが開幕していた12年3月にJ2東京Vにレンタル移籍を決めた。メンバー発表の行われる7月中旬までという短期間の移籍でラストチャンスに懸けることになった。C大阪の下部組織出身で環境を変えるのは初めての経験という大きなリスクも覚悟の上だった。しかも新たな舞台はJ2。活躍したとしても関塚隆監督に評価されるかは微妙な情勢だった。

 それでも杉本は大奮闘し、猛アピール。短い期間ながらも18試合に出場し、5ゴールをマーク。12年7月2日に発表された五輪メンバーにサプライズ選出された。リスクを背負って最後のチャンスをつかんだ杉本は当時「最初に聞いた時はびっくりした。すごくうれしかった。(五輪メンバー入りを)狙っていたが、自分の成長のために(東京Vへ)来たので、その結果、選ばれたのは良かった」と語り「特別な大会なので結果を出してきたい」と語っていた。

 その一方で、U―23代表チームの主力で鹿島のFW大迫勇也、MF原口元気が落選。波乱のメンバー選考だった。関塚ジャパンは本大会初戦でスペインを撃破するなど、快進撃。メダルを懸けた3位決定戦で韓国に敗れたものの、銅メダルを獲得した1968年メキシコ五輪以来のベスト4と結果を出した。 (敬称略)