古馬頂上戦を無敗で踏破しグランドスラムを達成するなど、長らく世界の競走馬獲得賞金トップに君臨。現在では「ウマ娘」にも登場し、ライトファンにも注目を浴びる「世紀末覇王」テイエムオペラオーの真実を、主戦・和田竜二騎手らの証言も交えて追いかける。

人生の師との出会い

「こ、怖そうな人や」

 原口政也の前に座った人は、髪形はパンチパーマで、日々鍛え抜いた肉体は小柄であれ、実に堂々としたたたずまいで威圧感さえあった。原口は野球をしていたくらいだから、競馬社会では体は大きな方だが、思わず身が縮こまるほどだった。加えて、原口らの世代にとって、パンチパーマは怖い人の目印のようなもので、その先入観が、余計に原口をビビらせた。

 ただ、話をしてみると、鹿児島なまりの話し口、照れたように笑った時の目尻が下がる表情には、第一印象とは裏腹な温かみがあった。その人こそが、調教師の岩元市三だ。行き先として、岩元厩舎に配属されることは内定していたが、この面談の場が初対面だった。原口にとって、人生の師との出会いでもあった。

 原口は調教厩務員として、岩元厩舎のスタッフとなった。当時はまだ厩務作業は厩務員が担い、調教には攻め専と呼ばれる調教助手か騎手が乗るのが主流であった。岩元厩舎の乗り手には、武田悟、松田俊治の攻め専助手2人と、岩元の弟弟子になる出津孝一と弟子で厩舎所属・和田竜二の騎手2人がいた。だが、この当時はトレセン内、特に栗東では新たな風が吹き始めたころで、次第に厩務作業と調教にもまたがる持ち乗りの調教助手が増えてきて、重宝され始めていた。

 若い原口は、それに似た職務を担う調教厩務員となった。最初はすでに現役で活躍する馬を譲り受けて、初めての競馬を経験して、初勝利も挙げた。順調なキャリアのスタートだった。

 その年の初夏、「午後から新馬を迎えに行ってくれ」と岩元に言われて、入厩検疫の厩舎に迎えに行ったのが、穏やかな栗毛馬、後のテイエムオペラオーだった。

 厩務作業が落ち着いたころ、原口はひと息ついて、オペラオーの血統を眺めた。

「オペラハウスか」

 特別詳しいわけではないが、オペラハウスの印象くらいはある。欧州の実力馬で、大種牡馬サドラーズウェルズの直子だ。

「長いところ向きか」

 厩(うまや)から穏やかな顔で原口を見つめるオペラオーの性格からすれば、父の血を色濃く継いでいるように思えた。母ワンスウエドの子供は、総じて短距離馬としての資質が高い血筋だったが、オペラオーに関しては父の影響なのか、そうした短距離馬に多く見られるピリピリと神経のとがったような難しさは、まったくなかった。(文中敬称略・講談師=旭堂南鷹)

原口にとって“人生の師”とも言うべき岩元調教師
原口にとって“人生の師”とも言うべき岩元調教師

☆テイエムオペラオー 1996年3月13日に北海道浦河町の杵臼牧場で生産。98年に岩元市三厩舎からデビューし、若き和田竜二とのタッグで、翌年の皐月賞を勝利。2000年には年間無敗で怒とうの8連勝と突き進み、古馬王道GⅠを全5勝する“グランドスラム”を達成した。総獲得賞金18億3518万9000円は15年以上にもわたって世界の競走馬賞金ランキングトップだった。20世紀末の競馬界を制覇したことから“世紀末覇王”との異名も。

著者:旭堂 南鷹