本来であれば格差問題の解決に取り組むべきリベラルが、なぜ「新自由主義」を利するような「脱成長」論の罠にはまるのか。自由主義の旗手アメリカは、覇権の衰えとともにどこに向かうのか。グローバリズムとナショナリズムのあるべきバランスはどのようなものか。「令和の新教養」シリーズなどを大幅加筆し、2020年代の重要テーマを論じた『新自由主義と脱成長をもうやめる』が、このほど上梓された。同書の筆者でもある中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)の各氏が、グローバル化と国際化、アメリカをはじめ先進国で台頭しつつある国民保守主義について論じた座談会の後編をお届けする(前編はこちら)。

普遍性への信頼なくして個別性は確立されない

佐藤:「近代」が普遍性を追求しているように見えるのは、思想や言説をつくるエリートに注目したときの話で、じつは近代こそ、国ごとの個別性が確立された時代ではなかったかという中野さんの指摘は、非常に面白いものです。しかも今や、それがグローバリズムという形で普遍性に回帰したがっているから、いっそう面白い。

近代とは近代を否定する試みなのか? という感じですが、これは矛盾でも何でもありません。近代の個別性は「理性の普遍性」にたいする信頼に支えられていたからです。

各国の個別性を保証する主権国家体制が生まれる契機となったのは、17世紀前半の三十年戦争。カトリック信仰の普遍性を基盤にした従来の秩序など維持しえないことが、この争いで明らかになったわけですが、だとしても共通の基盤がないまま個別性を認めたら最後、いよいよ収拾がつかない。下手をすれば文明が崩壊します。

そこで、いっそう普遍的な共通の基盤として理性が持ち出されたのです。科学史家スティーブン・トゥールミンの言葉にならえば「カトリックとプロテスタントが、腹を割って議論し、物事の基本的なあり方について理解を共有できるようにする」ための切り札。これが個別性の確立を可能にしたのですが、テクノロジーの発達という形で、理性の普遍性に対する信頼が高まれば高まるほど、「もう個別性など不要だろう」ということになる。個別性を認めたかに見えた近代が、普遍性の追求に戻ってゆくのは必然なのです。