ひまを持て余し、近くの公園を散歩したり、買い物をしたりして気晴らしをした。長期滞在に伴い、それまでの腹膜透析から血液透析に切り替えており、定期的に現地の病院に通って透析治療を受けた。

やっとのことで「ドナーが見つかった」とNPOから伝えられたのは、渡航から4カ月ほどたった10月頃のことだ。ドナーは中年のウクライナ人女性で、名前をエレナといった。トルコ人側の手配でタシケントに来ていた。

本田は、病院での検査の際などに何度もエレナと顔を合わせている。エレナは本田よりも小柄で、片言の日本語で「朝ご飯は食べましたか?」などと気さくに話しかけてきた。明るくおおらかな人柄で、何かと言えば「ハグ」をしてきた。

滞在先のホテルなどで、エレナはカタリナから日本語を教わっており、「幸せなら手をたたこう」という歌を日本語で口ずさんでいた。

エレナを日本人の本田の親族に見せかけ、違法ではない「親族間の生体移植」を装うのが目的だった。それは後に知ったことで、本田は当時、何も知らされていなかった。

近づく手術、突然の病院変更

いよいよ手術の日が近づき、本田はホテルを出てタシケントの病院に入院した。

ところが、11月下旬に突然、カタリナから「隣国のキルギスに行きます」と告げられた。ちょうど入院先の病院から外出していた時だったが、病院に荷物を取りに行く間もなく、空港に直行した。

NPOの仲介で現地入りしていた他の日本人患者2人と一緒に飛行機に乗り込んだ。病院に置いてあった荷物はNPO職員が持ってきてくれた。

1時間余りのフライトでキルギスの空港に降り立つと、首都ビシケク市内にある病院に案内された。コーディネーターのトルコ人が民間の病院を借り切ったとのことで、慌ただしく移植用の医療機器が運び込まれていた。

日本人患者はさらに1人合流し、本田を含めて4人になっていた。他の3人はいずれも中年の男性で、全員が腎臓を病んでいた。

ドナーのエレナも、トルコ人とともにタシケントからビシケクに移動し、同じ病院の同じフロアに入院した。

トルコ人が手配した医療チームは、執刀医のエジプト人男性と、トルコ人の仲間の腎臓医、麻酔医、看護師らがメンバーだった。院内には、NPOとは別ルートでトルコ人が案内したと思われる外国人患者たちがおり、同様に腎臓移植を待っていた。

日本を発ってから、もう半年たっていた。ちゃんとした手術を行ってもらえるのかどうか不安はあったが、すでにドナーも目の前にいる。

本田の胸中には「手術を受けるのなら、今しかないのではないか」との思いが強まっていた。結局、手術を受けることを決断した。

(後編に続きます)

著者:読売新聞社会部取材班