小4で不登校になったため、漢字はほとんどわからない。母親に強要されて身体をはじめて売ったのは12歳のことだった。

だが身体を売って稼いだなけなしのお金も、母親が根こそぎ持っていってしまう。薬物中毒で腕には無数のリストカットの跡がある。

本作の物語は、身体を売った男がホテルの中でオーバードーズで失神してしまい、警察に逮捕されてしまった杏が、刑事の取り調べを受けるところから始まる。

取り調べを担当したのはベテラン刑事の多々羅(佐藤二朗)。最初は「令状を持ってこい!」と反抗的な態度をとっていた杏だったが、そんな彼女に対して多々羅は「ヨガがいいんだよ、シャブを抜くには」と言いながら、いきなりヨガのポーズを披露するような風変わりな大人だった。

「とりあえず売春はやめろ。薬を抜くためにはまず自分を大切にするところからだ。夢中になれることを探せ」と諭す多々羅は、自身が運営する「サルベージ赤羽」という薬物更生者の自助グループに杏を誘う。

社会に出ようとしていた杏に対して、雇用主は低賃金で給料をごまかそうとしたり、生活保護の担当者も杏の話に聞く耳を持とうとはしなかったりもしたが、多々羅はそんな冷たい大人たちに対しても怒りの声をあげて守ろうとするなど、ぶっきらぼうながらも親身になってくれた。

新しい人生を歩み始めたものの…

これまでに出会ったことがないような大人であり、これまで大人を信じることのなかった杏も次第に心を開くようになる。

あんのこと 河合優実 多々羅(佐藤二朗)は父親のような存在だった。そして記者の桐野(稲垣吾郎)からは勉強を教わるなど、人生をふたたび歩み出そうとする杏にとって彼らは光となっていたが…。©2023『あんのこと』

そんな杏に向かって「多々羅さんって面白いよね」と話しかけてきたのは、3年前から多々羅の取材を行っているという週刊誌の記者・桐野(稲垣吾郎)という男だった。

多々羅と桐野、ふたりの大人たちに見守られながら、少しずつ居場所を見つけていく杏。クスリを絶ち、つたない文字で日記を書き始め、新しい職場で働き始めた。さらには母親の元を去りDVシェルターに身を寄せて、漢字の勉強も始めた。

新しい人生を歩み始めた杏の表情は次第に生気を帯びるようになった。だが2020年、未知のウィルスがもたらす感染症が世界を一変させた。何かをつかみかけたように見えた杏の人生の歯車も少しずつ狂い始めた――。