「ダービーは特別」
全てのホースマンがその舞台への憧憬を語る。

年間7000頭を越えるサラブレッドが生産される日本では、競走馬が3歳になる年の5月、その世代の王を決める祭典が行われる。玉座をかけた争覇の儀、それが「日本ダービー」だ。

万緑深まる府中の地で、今年も夢と意地とがぶつかりあう。


■血統と歴史つなぐ「年間7000頭」

一方、栄えある競馬の舞台裏、引退した競走馬にスポットライトが当たることは、けして多くない。

成績や血統の優れた馬であれば、次の世代の父や母として生きていくこともあるが、それはほんの一握りの話。最も一般的なセカンドキャリアは乗馬施設などで繋養される道である。

競走馬に関する統計を農林水産省のホームページで確認することができる。
年間、競馬を引退する馬は約7000頭。奇しくも、それは生産頭数とほぼ同じ数であった。
事由の内訳を見ると、先に挙げたように、親として生きていく「繁殖」と乗馬施設などで繋養される「乗馬」の項目が併せておよそ6割と大半を占める。

その傍ら、資料の中でさらに目を引いたのは、25%にあたる「その他」の項目だ。
引退した馬の4頭に1頭の行き先が、私にはそういくつも思い浮かばなかった。

引退馬は、どこへ行くのか。
取材は、競走馬の余生に思いを馳せ続ける時間であった。


■引退馬を待つ現実

先述の統計に関して、「認定NPO法人 引退馬協会」の代表、沼田恭子さんに電話で話を伺った。
30年近く活動を続ける引退馬支援の第一人者である。

「「その他」の内訳ははっきりとは分からないですけども、屠殺されて、お肉になるということは多いと思いますね。」

ああ、やはり。
以前、休日に競馬場でレースを観戦していた時のこと。近くにいた誰かが敗れた馬に向かって「馬肉行きだ」と唾を吐いた。私は声の方を睨みつけた。下品なことを言うなと怒りがこみ上げたのを覚えている。
しかし、競走馬が馬肉になるということは、馬に携わる人たちにとって暗黙の了解なのであった。

さらに、この統計には書かれていない事実も明らかになった。
「乗馬や繁殖になった馬も、そこで最後まで生きられるとは限らないんです。」

乗馬施設や生産牧場などでセカンドキャリアを迎えた馬もまた、引退後の余生を保証されているわけではない。乗馬や繁殖馬としての適性が無ければ、終生繋養することは難しいのが現実だ。
ではセカンドキャリアを失った馬はどこへ行くのか。ところが、それ以降の行き先を示す統計がどこにも見あたらない。どれだけの馬が天寿を全うできているのか、把握することは叶わなかった。

そうした現実を受け、沼田さんは多岐にわたる取り組みを行っている。
「人の都合で生まれてきた命ですから、競馬が終わった馬たちの生きる場所をたくさん作らなきゃいけないと思うんです。」
物腰柔らかな言葉の端々からは、受話器越しにも確固たる意志が滾るのを感じられた。


何か、自分にできることはないだろうか。
メディアとして、沼田さんの活動と信念を伝えたい。

取材を申し込むと、私でよければと快諾してくれた。


■馬の居場所を増やすためには

今年3月、千葉県香取市を訪れた。
引退馬協会が本部をおく「乗馬倶楽部イグレット」は、県道から一本細い道に逸れ、木立のトンネルを抜けた先にある。日常と非日常の境界をくぐるような気持ちがした。

この日は、数カ月に一度のイベントが催されていた。
引退馬の支援者たちが集まり、えさやりやお手入れを体験して馬と一緒に過ごす。

馬たちも自由気ままだ。隣の馬房の馬にちょっかいをかける馬、犬とまっすぐに見つめ合う馬、砂場の上で赤ん坊のように寝転がる馬。集まった人たちはうっとりとした視線を向けていた。

思い思いに馬とふれあう人たちを見て、沼田さんは安堵の表情を浮かべていた。
馬に会い、馬の温かさや可愛さを近くで感じてもらう機会を作ることは、引退馬協会が最も大切にしている活動の一つだという。

「馬を好きな人が増えていくことが、馬を生かす場所を増やすことにもなると思うんです。」

イベントの間は沼田さんも先頭に立ち、支援者たちと言葉を交わしていた。

揺るぎないこの熱意は、どこから来るものなのだろう。
私は沼田さんに、引退馬支援のルーツについて訊ねた。


■「いてくれるだけでいい」

沼田さんには、生涯馬に携わり続けた夫がいた。沼田和馬さん。ドイツへの留学や北海道の名門ファームなどで研鑽を重ねた後、独立して競走馬の育成牧場を開業した。

サラブレッドの子供を競走馬として育て、2歳でのデビューに送り出すことが和馬さんの仕事だった。本来、馬は30年近く生きる動物だ。しかし競走馬としての寿命は短く、多くは3年前後でターフを去る。引退後の行方は馬主にゆだねられるが、大きくなった子供たちが和馬さんのもとへ帰ってくることはない。

「そのことを夫は、ずっと淋しがってました。」

開業から8年が過ぎた年、和馬さんの身体が病に蝕まれ、生活は一変した。脳腫瘍だった。入院と手術の繰り返しで、育成牧場を続けることはできなくなった。

「少しでも元気になってもらいたくてね。」ゆっくり馬と過ごせたら、夫を元気づけられるかもしれない。そう願いを込めて開場を遂げたのが「乗馬倶楽部イグレット」である。

切実な思いを聞いて、私はそっと深く息を吸った。

晩年、病床の和馬さんはほとんど「植物状態」に近かった。
「会いに来たよ。」聞こえているだろうか。
子どもたちを連れて見舞いに来ても、反応はない。

当時を振り返る沼田さんの表情に悲観の色はなかった。

「反応は無いんだけども、いてくれるだけで良いなって思うようになったんですよ。」
夫が元気だった時は、あれをしてくれない、これをしてくれないと不満を募らせることも多かったという。しかし、何か特別なことができなかったとしても、そばにいてくれるだけでよかった。

「初めからそう思えたら良かったんですけどね。」

それから、沼田さんはイグレットを拠点として引退馬の支援に動き出す。
競馬で勝てなくても良い。どんな馬も、いてくれるだけで良い。

和馬さんと過ごした日々で気づかされた思いは今、一頭でも多くの馬を生かしたいというイデオロギーを成している。変わらぬ信念を胸に、沼田さんは今日も活動を続けている。


■競馬場から学校へ 第二の馬生

引退馬協会の協力を受け、農業高校で暮らす引退馬がいる。
名はタッチワールド。地方競馬で5年半、118戦を戦い抜いた黒鹿毛のサラブレッドだ。
彼がいま広島県にある西条農業高校の馬術部で暮らしていると分かり、早速連絡を取った。

訪れたのは小雨がちらつく日曜日の朝。馬術部の顧問、神原先生が迎えてくださった。
とても人の好い笑顔で、温厚な人柄がうかがえる。沼田さんもそうだった。

農場では牛や鶏の鳴き声が聞こえていた。
厩舎の中を案内してもらうと、ゴム製の白い長靴を履いた生徒たちが黙々と作業に取り掛かっていた。大きなフォークを使って藁を綺麗にしたり、量りを使って馬の飼料を用意したり、馬の蹄についた泥を落としたり、皆それぞれの配置で忙しそうにしている。

いくつか並んだ馬房の中にタッチワールドがいた。カメラを向けると、ピンと耳を立ててこちらをじっと見返す。それも束の間、くるりとえさの方に向き直り、大きな咀嚼音を立て始めた。


西条農業高校の馬術部にいる馬は全10頭、その内7頭が引退した元競走馬だ。
神原先生が育成牧場に勤めていた頃のつてで色々と声がかかるのだという。

午前の作業が終わり、午後の乗馬練習までお昼休みとなった。
笑い声を弾ませてお弁当を食べていたのは女子部員たち。聞けば朝は7時から活動しているのだそう。

「家を出たのは何時?」ついつい聞いてしまった。
「6時20分」早い。
「5時半です」早すぎる。

「朝早いのはつらいですけど、馬が好きなので。」
屈託のない笑顔でそう言われてしまえば、私は社会人ながら頭の上がらない思いがした。

午後の活動から生徒たちも増え、厩舎が活気づいていた。乗馬練習が始まる。馬房から順番に馬を出し、丁寧に手入れをしてから、頭絡を装着し鞍を乗せる。準備のできた馬からスタスタと馬場へ入って行った。

タッチワールドの手綱は新旧副部長のタッグが交代で取った。声をかけながら呼吸を合わせ、真っすぐ走る、輪を描くように回る、緩急をつけた動きで身体を動かす。首をポンポンと叩くのは「よくできました」の合図だ。

近くで「障害飛越」を見せてもらった。設置されたバーは腿から腰くらいまでの高さがある。
馬場を回って、砂を蹴る音がどんどん近づいてくる。かなりの速度だ、大丈夫だろうか。不安を他所に、目前に迫った黒い影が宙に浮いた。飛んだ。その僅かな間、音が凪いでいた。軽やかな着地から勢いそのままに再び砂の上を駆けていった。

タッチワールドは現役時代に大きなレースこそ勝てなかったが、乗馬としては高い素質を評価されている優等生だ。目指すは全国の頂点。人馬一体で挑み続ける。


■馬の命に思いを馳せて

取材の終わり、厩舎の隅に小さな柵の囲いがあることに気がついた。
「それはお墓です。馬たちと、猫もいますね。」
内側には蹄鉄が花びらのかたちに並べられている。木の板や大きな石が置かれ、それらに馬の名前が刻まれていた。生徒たちが手作りしたものだという。

2年前、一頭の馬が亡くなった。
名はウィッシュ。地方競馬で2戦し、勝ち星は挙げられなかったが、乗馬に転向してから何度も栄冠を勝ち取った。

ウィッシュは生徒たちに見守られて息を引き取ったという。
その日、そばにいた部員の一人に話を聞いた。

「朝、いつも通りえさを付けに行ったら、ずっと寝てたんで、」

どこか具合が悪いのだろうか。近づくと、意識はあるが立ち上がれずにいる。急いで先生に電話をした。それから数日は部員どうし交代しながら夜も早朝もお世話をした。

しかし、馬は歩くことが出来なければ血液を循環させることができない。回復の見込みは薄く、これ以上は苦しませるだけになってしまう。せめて安らかに眠ってほしいと、最期の日、獣医さんを呼んだ。苦渋の決断はウィッシュを想ってのことだった。

「やっぱり泣くこともあったんですけど、最後はここに来て良かったと思ってもらえるように、しっかりお世話したいという思いが強まりました。」

朗らかに、まっすぐな眼差しでそう話してくれた。

言葉を話せない馬たちが、幸せだったかどうか、私たちは推測することしかできない。それでも馬と暮らす人たちの温かく優しい気持ちは伝わっていたと信じたい。ここにいられて良かったと、きっと思ってくれているに違いない。



芝生を踏みつけ、大地が弾む。
競り合う優駿たちの力強い蹄音は、どこまでも続いていくかのように響いていた。

しかし、その先の未来はとても不確定で、全ての馬が天寿を全うできるわけではないと分かった。引退馬を犬や猫と同じようにお世話することには大きなハードルがある。

だからこそ、馬と暮らす人たちがいることを知ってほしい。
そこでは、やっとの思いで辿り着いた馬たちが生きている。

そして、どうか思いを馳せてほしい。
心ない言葉は飲み込んで、ヒーローもヒロインもバイプレーヤーも、私たちが夢を見たすべての馬たちが、生涯幸せに暮らせますように。

そう願う一人ひとりの気持ちが、引退馬の居場所へと繋がっていく。

(サタデーステーション 田丸 由樹)