目黒駅があるのは「品川区」、品川駅があるのは「港区」→は?

新宿区や渋谷区など、メジャーな区には新宿駅、渋谷駅など、区と同名の主要駅が存在することが多い。
しかし、中には「区と同名」であることから、思わぬ誤解が生まれるケースも。
結論から言うと、目黒駅があるのは目黒区ではない。
「いったい何を言ってるんだ…」と首を傾げた読者もいるだろう。
しかしこれは純然たる事実である。
目黒駅が建っているのは「品川区」なのだ。
ちなみに品川駅も、品川区でなく港区に存在する。
全国10~60代の男女672名を対象としたアンケートにて「目黒駅の住所」に関する意識調査を行ったところ、全体の79.6%が「目黒駅は目黒区にあると思う」と回答。
なお、新宿駅と渋谷駅で同様のアンケートを実施すると、新宿駅に関しては8割超、渋谷駅に至っては9割近くが「駅と同名の区内にあると思う」と回答。
目黒駅の設問が「ひっかけ」であることを知っていた(気づけた)ユーザーはかなり少数であることが、改めて分かる。
ではなぜ、目黒駅は目黒区内に建設されなかったのだろうか。
品川区に詳しい話を聞いてみた。
「1885年(明治18年)の日本鉄道(現在の山手線の線路を使った鉄道)は、当初目黒川沿いを進み下目黒に線路を通す計画でいたところ、桐ヶ谷、下目黒の住民の極端な反対に遭い実行できなかったため、五反田・恵比寿間の切通し工事を行った」「大崎町としては、結果的に大崎・五反田・目黒(上大崎)の3駅を町内に有し、目黒川沿いに工場の進出を招いて発展に繋がった」
「駅名が上大崎ではなく目黒になった経緯は分かりませんが、大崎駅が既にあるから別の名前にしたのかもしれませんし、目黒川沿い(今の目黒区内)に計画していた時点で目黒と仮称していたかもしれません。駅ができた上大崎は大崎町内であり、大崎町は昭和7年に品川町・大井町とともに品川区になりました」
ちなみに品川区には「桐ヶ谷、下目黒の住民の極端な反対に遭い実行できなかった」という資料が残っている。しかし歴史というのは、様々な視点から眺めてみないと真相が分からないもの。
前出の質問を目黒区に投げかけたところ、なんとも意外な回答が得られた。
「目黒駅が目黒区でなく、品川区に設置された理由については『よく分からない』のが実状です」
そもそも目黒区は「(当時の)目黒の住民から反対があった」という説に、懐疑的であるようだ。担当者は「よく分からない」根拠として、4つの観点から事情を説明する。
1、「当時の目黒や日本における様相から」
「戦前から1970年代頃の歴史書には、確かに『下目黒や桐ケ谷の住人の反対に遭い、現在のルートになった』旨の記載があります」
しかし、その根拠となる資料(反対陳情書や、反対運動で使ったのぼりなど)は、現時点で見つかっていないそうだ。
また、当時の様子を直接伝え聞いた人物からは「反対運動があったこと自体を知らない」という証言が多く寄せられており、1962年(昭和37年)に目黒区郷土研究会より発行された資料『郷土目黒 No.6』にも、同様の記載が確認できる。
「同駅が建設された1880年代は鉄道が開業してから約10年経過しており、この時代には鉄道の有効性(特に経済的・軍事的なもの)は時の有力者たちに認められていたので、こうした時流から逆行するのにはそれ相応の理由があるが、現状そうした理由は見つかっていません」
当時の新聞記事を参照し、「下目黒で大々的な鉄道敷設反対運動があった、という記事は見当たりませんでした」とも振り返っている。
全国的に見ても「鉄道反対の陳情書」というのは、資料として現存しているものが少なく、現状では「参宮鉄道」程度しか見つかっていないという。
2、「当時の鉄道技術の理由から」
目黒区は「目黒駅を品川区(現在の場所)に建てた方が合理的であった」とも指摘。
明治当時、日本の鉄道技術は発展途上であり、急坂や市街地に線路を敷設する技術も未発達であった。そのため、渋谷から下目黒附近を通過し、大崎・品川方面へ至る路線を敷設する場合、台地から川沿いに下りてまた登るルートとなり、坂に線路を敷設することになってしまう。
また、住宅がそれなりに建っている地域に鉄道を通す際、現在では高架線や地下線で通すが、当時はそういった技術が無いため、明治時代には「可能な限り住宅地を避けるように建設する」ことで解決を図っていた。
このことから、現在の「台地を走行するルート」になったと考えられる。
3、「当時の鉄道における採算的問題から」
1880年代当時の情勢について、、資料館の担当者は語る。
「日本国内に鉄道が開業してから10年以上経過し、人々に有効性が広まっていたとはいえ、建設予算は抑えたいのが当時の鉄道事業者です。そのため、鉄道のルートは可能な限り迂回せず、真っすぐに引きたいのが実状です」
4、「当時の区割りから」
現在の目黒区や品川区は当時「荏原郡」に属しており、現在のような区割りとなっていたワケではない。そのため現在の目黒駅の所在地は、当時は「荏原郡上大崎村」であり、「目黒」どころか「品川」も含んでいない住所だったのだ。
「当時、江戸時代からの名所である近隣の『目黒不動尊』に近い駅であったことから、『目黒駅』という名前になったのではないかと思われます」
上記4点を踏まえ、資料館の担当者は「目黒駅が現在の目黒区内にない理由について『現状は分からないのが実状』であり、『極端な反対があったかは疑わしい』程度に留めるしかないのが、目黒区としての見解です」と念押し。
明治時代に命名された駅名を「現在の東京23区」の観点から見てしまうと、少なからず違和感を覚えてしまうのかもしれない。
以上、Sirabeeからお届けしました。
編集者:いまトピ編集部

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