永野芽郁で、判明

永野芽郁をめぐる騒動は、彼女の謝罪やCM契約取り下げ、大河ドラマ降板という結果に至った。
一方で、疑惑の相手とされる男性は、現時点で明確なキャンセルを受けていない。
これは偶然ではないだろう。むしろ、スキャンダルという制度が、構造的に女性の方だけを罰するよう設計されていることを可視化した。
これまでに繰り返されてきた不倫スキャンダルで「家庭を壊した側」として、女性だけが社会的制裁を受けてきた。
男女間のトラブルで「悪女」「あざとい」「魔性の女」として物語化されるのは女性。一方で男性は「誘惑された」「魔が差した」「誤解だった」として、しばしば赦される。
この非対称性は、単なるメディアの好奇心ではなく、「公私」をめぐる近代的道徳の構造そのものに根ざしているのだろう。
これらは、「自己監視=自己キャンセル」とも言える。「女の敵は女」というよりも、「制度としてのジェンダーが女性を互いに裁かせる構造をつくっている」と言うべきだ。
キャンセルカルチャーが「過ちを犯した人間を赦さない社会」として批判されるとき、それが誰を赦さないかに着目する必要があるだろう。
男性の不倫は「一時の気の迷い」として赦されるが、女性の不倫は「本性の露呈」「計算」「裏切り」として人格否定に発展する。
そこにあるのは、「倫理違反」への懲罰ではなく、女性にだけ課された幻想的な“道徳の純粋性”を裏切ったことによる裁きである。
永野のキャンセルは、「炎上したから起きた」のではなく、むしろ現代のメディアと観客が女性に投影している“倫理的無垢”という幻想が裏切られたとき、その幻滅が制裁として顕現しただけだ。
そしてキャンセルされるのは「見られている側=女性」で、赦されるのは「見ている側=男性」。この非対称性こそが、メディア社会の倫理の根幹に潜む、構造的暴力なのだと週刊実話WEBは報じている。
編集者:いまトピ編集部