藤原道長と紫式部。摂関政治の全盛期を築き、平安時代をとおして最大の権力を握った男性と、最古の長編物語で世界の文学史上に燦然と輝く『源氏物語』の作者である才媛。

 NHK大河ドラマ「光る君へ」の主役であるこの二人は、同じ時代に生きたのが偶然であったとしても、多かれ少なかれ相互に影響をあたえ合ったと考えられている。紫式部の生没年は不詳だが、康保3年(966)生まれの道長より4歳程度年下だったという説が有力だ。そして、二人は男女の関係でもあったという説は、昔から存在する。

 とはいえ紫式部については、彼女が遺した『源氏物語』のほか『紫式部日記』や和歌などをとおして、その人となりや考え方はよく伝えられているものの、とくに少女時代の様子などは、わからないことが多い。

 彼女の少女時代の逸話として有名なのは、父の藤原為時が紫式部の弟の惟規に漢文で書かれた書物を教える際、惟規はなかなか理解できないのに彼女はすぐに理解してしまうので、父が「この子が男だったら」と嘆いたという話である。だが、これとて彼女自身が『紫式部日記』に記したから伝わっている話なのだ。

 だから、若き日の紫式部と、権力を奪取する以前の藤原道長とのあいだに交流があったかどうかは、まったくわからない。したがって、「光る君へ」で描かれる二人の交流も、すべてが脚本家の想像の産物である。しかし、結論を先にいえば、それが史実を反映した描写ではないとしても、違和 感は覚えない。

平安中期の王朝社会に恋愛は重要なアイテム

「光る君へ」では道長を木村皐誠、紫式部を落井実結子と、子役が演じていたころに二人は出会った。そして、たがいに身分を明かさないまま二人は惹かれ合うが、第4話「五節の舞姫」(1月28日放送)で、まひろ(紫式部のドラマ内での呼び名、吉高由里子)は、心を寄せている三郎(柄本佑)が道長であると知る。しかも、彼女の母を殺した藤原道兼(玉置玲央)の弟だったことで、大きなショックを受ける。

 紫式部が幼少期に母親を失ったことはわかっているが、死因はわからない。したがって、道兼が殺したというのも、脚本家の創作である。

 第7回「おかしきことこそ」(2月18日放送)では、まひろが道長への思いを断ち切れないことがテーマとされた。そして彼女は、道長をふくむ上級貴族の若者がポロに似た競技である打毬を見学した際、控室で彼らが女性の品定めをするのを耳にしてしまう。そこにおけるわかりやすい発言は、藤原公任(町田啓太)による以下のものだった。

「オレたちにとって大事なのは、恋とか愛とかじゃないんだ。いいところの姫の婿に入って、女子をつくって入内させて家の繁栄を守り、次の世につなぐ。女こそ家柄が大事だ。そうでなければ意味がない。そうだろ、道長?」

 一連の会話を立ち聞きしてショックを受けたまひろは、帰宅後に道長からの恋文を燃やしてしまうのだった。

 NHK大河ドラマの歴史を振り返れば、権謀術数や戦闘が描かれることが好まれるのは明らかだと思われる。むろん、「光る君へ」で描かれる平安中期も権謀術数は渦巻き、それは主として道長の父である藤原兼家(段田安則)の、手段を選ばない出世欲をとおして描かれている。

 とはいえ、ここまでのところ、ドラマの中心に置かれているのはまひろと道長の恋愛感情であり、このため「大河ドラマが恋愛ドラマになってしまっている」という嘆きの声も聞こえる。第7回にして10.9%という低い視聴率の要因は、その辺りにありそうだ。

 しかし、やはり恋愛は、平安中期の王朝世界を描く場合、欠いてはならないどころか非常に重要なアイテムなのである。

創作を通じて時代の様相が伝えられている

 たとえば、紫式部の同時代の女性に和泉式部がいる。彼女は歌集の『和泉式部集』に記されただけでも、10人を超える男性と深い関係にあったようだ。そんな和泉式部のことを紫式部は、『紫式部日記』に軽薄であるかのように書いているが、当時の感覚としては、むしろ紫式部が潔癖症気味なのだと思われる。「色好み」は当時の常識からすると、女性にとっても普通のことで、諸歌集にもそういう女性は数多く登場する。

 山口博氏 は「現代の道徳観から理解するのは非常に困難だが、節度をわきまえた『色好み』は人格的欠陥ではなく、当時の貴族の身に備えるべき条件であったのだ。ただ、過剰であったり身分階級を超えたりした色好みは、風儀に外れるとして冷たく見られていたらしい」と記す(『悩める平安貴族たち』PHP新書)。

 ちなみに、『紫式部日記』によると、現在、「光る君へ」で描かれているより、もう少し年を重ねてからのことだが、彼女は男性から「戸をたたいても開けてくれない」という歌を贈られ、「戸を開けたら後悔していたでしょう」と冷たく返している。そして、この贈答歌を詠んだ男性は『新勅撰和歌集』によれば道長だとされる。

 既婚なのに「色好み」がすぎる道長を毅然として拒否した紫式部――。現代の感覚ではそう判断してしまうところだが、当時の一般に照らすと、紫式部が潔癖、あるいは奥手だったのだと受けとれる。また、道長もあくまでも歌で節度を表現している。このあたりのニュアンスが、「光る君へ」ではうまく表現されているのである。

 紫式部の少女時代のことはわからない。だから、ドラマで描く場合は創作するしかなく、それを「史実と異なる」と非難するのはナンセンスだ。重要なのは、創作をとおして時代状況や当時の空気が描けているかどうかだろう。その点、「光る君へ」には及第点をあたえられる。

 いま述べたように、平安王朝の「色好み」の状況が描かれ、そのなかで、まひろこと紫式部は奥手であった様子も伝えられる。しかも、男性貴族たちは色を好みながらも、それ以前に出世競争に腐心し、家を栄えさせることに必死である。そのことは、先に引用した藤原公任の「オレたちにとって大事なのは、恋とか愛とかじゃないんだ」以下の言葉に、端的に表現されている。

 現状、視聴率こそふるわないが、わからないことだらけの主人公を通じて時代を描き、時代を超えて感情移入できる自然な心模様が描けているのは、評価されるべきことではないだろうか。

史実に即した創作

 翻って、昨年の「どうする家康」はどうだっただろうか。

 最大の問題は、徳川家康(松本潤)の正室、築山殿(ドラマでは瀬名、有村架純)の描き方だった。彼女と家康はある時期からまったく同居していないことなどから、不仲であったのはまちがいないとされているが、ドラマでは築山殿の死まで夫婦は仲睦まじかったとして描かれた。

 さらには、史実では敵の武田と通じていたのがほぼ確実な築山殿に、隣国同士で足りないものを補填し合い、武力ではなく慈愛の心で結びつけば戦争は起きない、という話を語らせ、それが家康や家臣に大きな影響をあたえたように描かれた。

 百歩譲って、築山殿と家康の関係性が、じつは悪くなかったとして描くだけならいい。しかし、家康が壮年期を送ったのは、領国の境界が常に敵の脅威にさらされ、戦わなければ敵の侵攻を許してしまう時代だった。戦って平和を維持する姿勢を示さなければ、国衆をはじめ領主たちはすぐに離反してしまうのが、戦国の世の現実だった。築山殿のような発想が生まれる余地はなく、よしんば生まれても、それに大名や家臣が賛同することなど、ありえなかった。

 家康は築山殿に「私たちはなぜ戦をするのでありましょう?」と聞かれ「考えたこともない」と答えたが、この時代、いっぱしの大名が戦をする意味を考えたことがなければ、たちまち滅ぼされただろう。

 昨年、「どうする家康」が「史実を尊重していない」と書いて、「ドラマはフィクションなのに、それを史実との整合性で評価するのはまちがいだ」というお叱りをいただいた。しかし、私がいいたかったのは、エピソードが史実と異なるかどうかではない。時代状況を無視し、同時の常識とは正反対の考え方を描けば、その時代に対する誤解を生む、ということだった。その点で、「光る君へ」はいまのところ、おおむね「史実に即した創作」だと考えるのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部