「袴田事件」の静岡地裁(國井恒志裁判長)での再審では、3月25日から3日間にわたり検察と弁護団の双方が依頼した法医学者ら鑑定人に対する証人尋問が行われた。1966年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌製造会社の専務一家4人が殺された強盗殺人事件で死刑を宣告された袴田巖さん(88)と姉・ひで子さん(91)の戦いを追う「袴田事件と世界一の姉」の41回目。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

「赤みは残らない」と検察側証人

 公判初日の25日は、検察側の証人が証言台に立った。

 検察側は「味噌に漬かった衣類の血痕に赤みが残ることもある」とする共同鑑定書を出しているが、検察側の証人である池田典昭・九州大学医学部名誉教授の鑑定書とは異なる証言に、弁護団も傍聴者も耳を疑った。「1年以上、味噌に浸かっていれば、赤みは残らない。黒くなるという結論は正しい」「赤みが残らないことは常識中の常識。本来、残るわけがない」と言ったのだ。

 池田名誉教授は黒ずんでゆく化学変化の阻害要因として酸素濃度などがあることを示して「弁護側の立証は不十分」としたが、発言の基本は「血痕に赤みは残らない」ということだった。弁護団事務局長の小川秀世弁護士が閉廷後の会見で「聞き間違えたのかと思いました」と打ち明けるほどの仰天発言だった。

 続いて神田芳郎・久留米大学医学部教授は「色は主観的なもの」として「5点の衣類が入っていた味噌タンクの条件は正確にはわからないので、赤みが残る可能性は否定できない」とした。ひで子さんは記者会見で「なんだか学者さんは慎重でしたね」と検察側証人の印象を述べた。

実験はしていない

 弁護側が提出した清水・奥田鑑定(旭川医科大学の清水惠子教授と奥田勝博助教による鑑定書)は、入念な実験を重ねて作られた。検察側の証人である鑑定者は、これを論破しなくてはならないが、7人もいながら誰ひとり実験をしなかった。検察側の共同鑑定書は、文献などをもとに協議して神田教授の主導で作られたのだという。

 会見で角替清美弁護士は「神田証人については、鑑定書読んだときにも思ったんですが、はっきり言って、料理もしないくせに妻の料理に文句をつける夫ですよ。何も実験してないでズームで会議して勝手なこと書いているだけ。それに対して清水教授、奥田助教は何回も実験しているんですよ」と笑わせた。「料理」とは実験のこと。巧みな比喩だった。世間の人は科学者が鑑定するといえば実験くらいするものだと思うのではないか。

 26日の午後から証言に立った旭川医科大の清水惠子教授は「5点の衣類が入った麻袋が味噌タンクに放り込まれた後、8トンの味噌原料が入れられるまでの(最大)20日間で、血痕は十分、酸素に触れて黒ずんでいたはず」と主張した。要は、そのあと味噌が上に入ろうが、コンクリートが流し込まれようが、関係ないといった意味だろう。清水教授は「血痕は微量の酸素ですぐに黒ずむ」「麻袋に入っていた空気だけでも十分」と述べた。

 そして「鼻血は赤いけど、鼻の穴に残った血はすぐ黒くなります。若い女性は月に1回、自分の血液を見ますが、最初は赤いですけど、洗濯機に放り込んで少し置いたら洗う時にはもう黒ずんでいますよ。男の人は奥さんに聞いてください」と男性諸氏にはちょっと顔が赤くなるような話も例示した。そして「1年以上、味噌に浸かっていた血痕が赤いままになることなどありません」ときっぱりと言い切った。

 検察官の反対尋問で清水教授は「大学に入った時から実験を叩き込まれていますよ。訓練を積んでない人の実験に対して、正確に意見は申し上げられません」と述べた。さらに、「赤みが残らないということは何があっても揺るぎません」などと断言した。

 事件が発生したのは6月で気温が高かった。「高温多湿なら血痕は生乾きになる」とした清水教授に対し検察側は「高温多湿でも衣類を20日も干していれば乾くのでは」などと反論するのが精いっぱいだった。

「『赤みを帯びたままの可能性もある』というのは普遍的事象から逸脱した稀な事象のこと。それがあったというのなら実証するべきです」と清水教授は検察側の鑑定人を厳しく指摘した。

 清水教授がビシビシと歯に衣着せずに語る姿に思わず傍聴席から笑いが漏れるが、國井裁判長は「笑わないでください。笑うと証言が聞こえなくなります。笑ったら退廷していただきます」とピリピリしていた。とはいえ、この日、左陪席の益子元暢裁判官が的確な質問をするのを聞いて、筆者は無罪判決を確信した。

歴史的な決定から10年目に現れた村山元裁判官

 公判3日目となった27日は、法廷の外が盛り上がった。弁護士で元裁判官の村山浩昭氏が静岡地裁前に姿を見せたのだ。ちょうど10年前のこの日、村山氏が裁判長を務めていた静岡地裁の合議体が袴田事件の再審開始と巖さんの拘置の停止という歴史的な決定を出したのである。以来、巖さんは自由の身になった。

 退官後、東京で弁護士として活動する村山氏は、袴田事件の傍聴のためではなく再審法の改正を訴える日弁連の「再審法改正実現本部」のメンバーの1人として啓発活動のために静岡にやってきた。街宣活動に参加し、資料が入った布バッグを市民に配ったり、近著の販売では購入者に丁寧にサインをしたり、懇親会にも気さくに参加するなどの姿に支援者たちも感激の様子だった。

 元裁判官で多くの無罪判決を書いてきたことで知られる弁護士の木谷明氏も駆け付けた。86歳とは思えないかくしゃくとした姿で、「戦後、一般の刑事裁判は裁判官の権限が強かった戦前の職権主義から(検察側と弁護側が中心になって主張を述べ合う)当事者主義に変わりました。ところが、再審では職権主義が残ったままになっているんです」と法の構造上の問題点を説明した。

 この日、法廷では検察側と弁護側の双方の証人に裁判官が質問する「対質尋問」が行われた。裁判官が「当時の状況を踏まえて赤みが残る可能性は?」と尋ねると、弁護側の証人の清水教授は「科学者として実証実験を行い、より起こりえる現象を結果として導き出しています。赤みは残りません」と念を押した。これに対し検察側の証人の神田教授は「可能性がないとは言えません。弁護側が赤みが残らないと断言していることに違和感があります」と話した。実験を行った上の反論でないなら、印象論でしかない。

 立ち返って、仮に「赤みが残る可能性が残る」が認められたところで、「疑わしきは被告人の利益に」の刑事司法の原則から、巖さんは無罪なのである。本来、検察には「絶対に赤みが残る」を立証する責任がある。立証もできず、「可能性がある」としか言えない段階で勝負はついている。

法医学の大権威の過ち

 警察や検察、裁判所から鑑定を依頼される法医学者にとって、捜査機関は大切な「お客さん」とも言える。法医学者の人数は少なく、限られた大学にしか講座がない。そんな狭い「法医学ムラ」の人である清水教授や奥田助教にとって、捜査側ではなく弁護側の鑑定人となることは勇気のいることなのだ。

 法医学の話ついでに、過去、多くの重大な冤罪を生み出した有名な科学者を紹介する。法医学者として日本で最も知られた人物といえる東京大学名誉教授の古畑種基氏(1891〜1975)である。

 1949年8月、青森県弘前市で弘前医科大学教授の妻が寄宿舎で刺殺された。当時の弘前市警は近隣住民の無職・那須隆さんを逮捕し、那須さんは殺人罪で起訴された。衣服の血痕が被害女性と一致したとされていたが、弁護側は「捏造」と反論した。1951年に一審の青森地裁は無罪判決を下す。

 検察は控訴し、仙台高裁は衣服の再鑑定を古畑氏に依頼する。「血液学の世界的権威」とされていた古畑氏は、被害者の血液と血痕が「98・5パーセントの確率で一致する」とした鑑定書を出した。仙台高裁は1952年、逆転有罪として那須さんに懲役15年を言い渡した。血液型が雌雄を決めたモデルケースとされた。

 ところが、事件から20年以上経過した1971年になって、那須さんの知人の男が「殺したのは私です」と名乗り出る。再捜査の結果、真犯人と判明。当然、那須さんはすぐに再審を申し立てた。

 古畑氏の鑑定が信用のできないものであったことが明白となるが、仙台高裁の刑事一部は1974年に那須さんの再審請求を棄却してしまう。ところが、同じ仙台高裁の刑事二部は、1976年に刑事一部の棄却決定を取り消して再審開始を決定した。再審が実現し、1977年2月に那須さんは無罪を勝ち取ったのである。この時のニュースは筆者もよく覚えている。

 実は古畑氏は、再審開始決定が出される前の1975年に84歳で亡くなっている。想像だが、刑事一部は「世界的権威」に忖度し、亡くなった後に刑事二部が再審へ持っていったのかもしれない。那須さんにとってはたまったものではない。

 古畑氏は1891年生まれ。東京帝国大学医学部を卒業、欧州に留学をし、帰国後は金沢医科大学の法医学教授となる。若干32歳だった。1936年には45歳で東京帝国大学の教授となった。血液のABO型の判定方法などを確立し、1947年には学士院士院会員、1956年には文化勲章を受章した。「最高権威」の名をほしいままにし、世間から尊敬されていた。

 古畑氏の生んだ重大な冤罪はこの事件にとどまらない。

 1980年代に再審無罪が相次いだ「四大死刑冤罪事件」でも古畑氏は、免田事件(熊本県)を除く財田川事件(香川県)、松山事件(宮城県)、今年1月に冤罪被害者だった赤堀政夫さんが92歳で亡くなった島田事件(静岡県)の3つで鑑定を行い、無実の刑事被告人を死刑台の淵まで送ったのである。

 このほか冤罪が判明した二俣事件(静岡県)などでも、警察・検察側の主張に沿う鑑定を行っている。明治時代に欧州留学などすれば、それだけで大権威だ。そんな男がこれだけの間違いを犯し無辜の民を苦しめてきた。古畑氏が意図的に捜査側のストーリーに沿う鑑定をしていたのかは不明だが、本人は再審無罪を知ることなく他界している。しかし、冤罪が明らかになり、岩波書店は1977年9月に古畑氏が監修した「法医学の話」を絶版にしている。

 鑑定は科学的な評価であり、事件や事故では証言以上に信用度は高い。それを担う法医学者たちが当局におもねる「御用学者」であれば、こんな恐ろしいことはない。

 そして重要な事件の鑑定が同じ人ばかりに集中するのは日本の官僚たちに脈々と巣くう「権威主義」だろうが、逆に言えば「あの大権威が間違えたなら仕方がない」の内向き発想でもある。それで一生を台無しにする人がいることなど念頭にない。

「警察の助力なしに鑑定はできない」

「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長は「以前、弘前市で警察の依頼による遺体鑑定を多く手掛けたある法医学者と懇談した際、彼は『鑑定は警察の助力や情報がなくてはできないんですよ。大体の鑑定は警察の鑑識課職員なんかと一緒にやっている。だから、ある意味、怖いんですよ』と話していました」と打ち明ける。

 警察が依頼した法医学者の誤った鑑定が冤罪を生んだ例に、滋賀県の湖東記念病院事件がある。亡くなった男性患者は「呼吸器が外れていたことによる窒息死」と鑑定され、看護助手だった西山美香さんが「人工呼吸器の管を抜いて男性を殺した」とされて逮捕、13年も服役した。

 ところが、法医学者のその鑑定は、滋賀県警から「呼吸器のチューブが外れていた」という情報を得た上での「結論ありき」の鑑定だった。西山さんは呼吸器の扱い方も知らず、扱う資格もなかった。男性の死因は致死性不整脈の可能性が高かった。この事件は、西山さんが「恋した」という男性刑事が卑劣な誘導をしていたことで知られるが、法医学者の鑑定にも問題はあったのだ。

5月の結審ではひで子さんの渾身の思いを

 3日間の公判を終えての会見では、弁護団の間光洋弁護士が「弁護側の血痕に赤みが残らないという主張は疑いもなく立証できた。3人の先生(清水氏、奥田氏、石森氏)のおかげです。3人には東京高裁での差し戻し審でもご協力いただいた」と感謝した。

弁護側の鑑定人のひとり、北海道大学の石森浩一郎教授は法医学者ではないが化学が専門。「我々、科学者の世界では自明のことでも、ああいう場(法廷)で理解してもらうのには苦労しました」と吐露した。

 ひで子さんは「清水先生はじめ先生方の証言は素晴らしかった。大成功です。検察のほうは赤だ黒だと一生懸命反論するんですが、なんだか苦し紛れに聞こえましたね。もうひと山もふた山も三山も越えました」と笑顔で話した。そして「56年経ってやっと再審になってここまで来ました。皆さまのご協力のおかげです。本当にありがとう」と語る時には一段と声を大きくした。記者や支援者らに向かって、勝利を確信した様子を見せた。

 長い公判をまんじりともせずに弁護団席の一番前で背筋を伸ばして聞き続けるひで子さん。91歳でできることではない。何しろ小中学校の成績は「オール優」、数学にも強く、経理の仕事も長かった。そんな頭のよい彼女にとって、化学の専門用語が多く飛び出すとはいえ、法廷でのやり取りは十分、理解しているのだろう。

「小川(秀世)先生には『5月22日の最終日(結審予定)には発言してくださいよ』と言われているんです」と明かしたひで子さん。楽しみである。彼女らしく端的で短いのかもしれないが、渾身の思いを語ってほしい。

 そんなひで子さんが「以前より足が弱くなった」と心配する巖さんは、浜松市の「見守り隊」(猪野待子隊長)ら支援者の運転でドライブを楽しんでいるという。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。