日本の柔らかいマウンドになじめず

 今季巨人に入団した、メジャー通算178本塁打のルーグネッド・オドーアが2軍での調整を拒否し、3月末に電撃退団帰国したのは既報のとおり。開幕を前に補強の目玉を失った巨人にとっては大誤算となったが、過去にも1軍公式戦でプレーすることなく、退団帰国した助っ人たちがいた。【久保田龍雄/ライター】

 2011年に巨人と契約したブライアン・バニスターも、その一人である。

 父のフロイド・バニスターも1990年にヤクルトでプレーした親子二代にわたる助っ人で、メジャー通算134勝の父に対し、メッツ、ロイヤルズでプレーした息子も、メジャー在籍5年で37勝を記録。実績だけで言えば、同年来日した新外国人選手の中では、ナンバーワンだった。

 キャンプインを前に入団会見を行ったバニスターは「相手の戦術や戦略を研究した知的な投球でアピールしたい。子どもたちの目標になるような選手でいたい」と力強く抱負を語り、先発陣の柱として期待された。

 だが、日本の柔らかいマウンドになじめず、制球にも深刻な影響を与える。カットボールやチェンジアップなど球種は豊富ながら、球速は140キロそこそこで、2月18日の紅白戦では、2回を無失点に抑えたものの、制球を乱し、ボークも記録と、不安をのぞかせた。

東日本大震災で変わった運命

 さらに3月3日のオープン戦、西武戦でも、浅村栄斗に2ランを被弾するなど、球が高めに浮き、5回途中被安打9の5失点KO。「もっと勉強しないといけない」と反省の言葉を口にした。

 そして、同11日のマツダスタジアムでの広島戦、同点の6回からリリーフしたバニスターはいきなり2点を勝ち越されたが、7回に味方打線が6点を挙げて逆転すると、9回までゼロに抑え、待望の“来日初勝利”を挙げた。

 ところが、この日に東日本大震災が発生したことが、運命を大きく変える。地震後、福島第一原子力発電所で発生した事故に不安を感じたバニスターは同16日に無断帰国。さらに3月末、「再来日の意思がなく、引退する」と連絡してきた。

 これを受けて4月1日、巨人はNPBに制限選手の申請を行い、米国を含む他国のリーグに移籍できなくする措置を取ったが、その後、本人から「いかなる場所でも、もう野球はやらない」と連絡があり、同26日に任意引退選手になった。

異例の「サヨナラ登板」

 オドーアやバニスターのように、オープン戦などに出場後、帰国した助っ人に対し、入団契約を交わしながら、諸々の事情で来日しないまま契約を解除した者もいる。

 1998年1月にロッテ入りが発表された左腕、マーク・ホルツマーは、キャンプイン前に左肩の故障を自ら明らかにし、「黙って金だけ貰っておこうという人もいるが、それは私のやり方ではない」と入団を白紙に戻して契約金も返済した。

 その後、2001年に森祇晶監督時代の横浜に入団し、「ホージマー」の登録名を用いたが、球威不足などから、登板6試合すべてに先発し、0勝2敗、防御率9.00と結果を出せず、わずか1年で戦力外になった。

 だが、前出の正直者のエピソードに加えて、キャンプ中に捨て犬を拾って面倒を見るなど、優しい性格から多くのファンに愛された。2軍落ち後の8月25日、夫人の出産に立ち会うため、一時帰国を申し出たところ、そのまま退団が決まったが、翌26日の湘南シーレックス(当時の横浜2軍のチーム名)対巨人で、通算0勝の助っ人では異例のサヨナラ登板がセッティングされ、3000人を超えるファンが別れを惜しんだ。

 このほか、2003年に中日と契約したケヴィン・ミラーは、すでに中日の支配下登録選手なのにレッドソックスが横やりを入れた結果、本人が翻意して米国でのプレーを望んだため、最終的に契約破棄となった。

 2021年に楽天入りしたメジャー通算25勝5セーブの左腕、アダム・コンリーも、コロナ禍で家族の来日が困難になったことから、「最適なタイミングではない」と来日を見送り、5月に契約解除されている。

“コリアン・サブマリン”

 1シーズン日本でプレーしたにもかかわらず、メジャー経験のある外国人選手では初めて1軍登板なしで終わったのが、2011年に楽天入りした金炳賢(キム・ビョンヒョン)である。

 ダイヤモンドバックス時代の2001年に78試合登板、5勝19セーブを挙げ、世界一を経験するなど、メジャー通算54勝86セーブを記録した金は、06年に韓国代表チームのメンバーとしてWBCにも出場。準決勝の日本戦で7回に福留孝介に決勝2ランを浴びたあと、次打者・小笠原道大に故意にも思える死球を与え、警告試合が宣告されたシーンを覚えているファンも多いはずだ。

 右下手から常時150キロの速球を繰り出し、ホームベースを横切るほどに曲がるスライダーが「フリスビー」と称された“コリアン・サブマリン”も、2008年以降は、全盛期の投球フォームを見失い、前年は米独立リーグでプレーしていた。

 この大物クローザーに「かつての球威が戻れば」と目をつけたのが、楽天・星野仙一監督だった。前年、楽天は抑え不在で最下位に沈んでおり、新守護神の確立が急務。金自身も日本でのプレーを望んでいたことから、テストを経て、11年1月に入団が決まった。

「私も星野監督の熱さに負けないように、グランドでは熱さを全面に出していきたい」と誓った金は、「本来の投球を取り戻す」ことを目標にキャンプ地に全盛時のビデオを持参し、3月8日のオープン戦、広島戦で初セーブを挙げるなど、まずまずの投球を見せた。

 だが、4月上旬に左足を捻挫し、全治4〜6週間と診断されて開幕1軍から外れると、その後、2軍で18試合0勝1敗、防御率2.66を記録するも、7月以降、ダレル・ラズナーが抑えに定着したチーム事情などから、1度も1軍のマウンドに立てないまま、日本を去った。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部