現役引退後は“臨時コーチ”としても活動する野茂英雄氏

 今年の春季キャンプでは、松井秀喜氏が6年ぶりに巨人の臨時コーチを務めて話題になった。過去にも坂本勇人や岡本和真らを覚醒させたことで知られる松井氏だが、他球団にもかつての名選手の指導で開眼した打者、投手は少なくない。

 1983年の春季キャンプでOB・山内一弘氏の指導を受け、本塁打を量産したのが、広島時代の高橋慶彦だ。

 俊足巧打のスイッチヒッターとして赤ヘルの切り込み隊長を務め、前年まで盗塁王2回、79年に33試合連続安打の日本記録を樹立した高橋だが、本塁打数は毎年ひと桁にとどまり、前年も6本だった。

 そんな矢先、83年のキャンプで臨時コーチの山内氏にダウンスイングからレベルスイングに矯正される。

 自著「赤き哲学」(KKベストセラーズ)によれば、山内氏は、ボールを打つ場所は、内側、外側、上、真ん中、下の5か所あるとして、「ボールのどの位置を打っているのか、意識しながら打席に立て」と指示したという。

 これらをすべてマスターするには高度な技術を要したが、高橋はもともと毎朝7時から食堂でバットを振っていたほどの“練習の虫”。「ボールの上を空振りしてみろ」「今度は下を振ってみろ」と指示され、ひたすらボールを打ちつづけているうちに、次第に感覚が身についてきた。さらに手首などの筋力アップにも励むと、同年は初の20本塁打以上(24本塁打)を達成し、打率も.305をマークした。

 2人の師弟関係は、翌84年の山内氏の中日監督就任後も続き、高橋は調子を落とすと、中日戦の試合前、敵将の山内監督にアドバイスを求めにいった。打撃について論じはじめたら「やめられない、とまらない」ことから、“かっぱえびせん”の異名をとった山内監督も「同じ野球人、悩んでいたら助けてやらにゃいかんやろ」と快く応じた。

 だが、皮肉にも、同年シーズン終盤、マジック「6」の首位・広島を0.5ゲーム差で追っていた中日は、9月29日の直接対決で高橋に2打席連続本塁打を打たれるなど、打撃戦の末、5対6でサヨナラ負け。翌日も連敗し、無念のV逸となった。たとえ愛弟子でも、敵に塩を送り過ぎるのは考えもの?

 現役時代に三冠王を3度獲得した落合博満氏も、2001年2月に森祇晶監督の依頼で3日間横浜の臨時コーチを務め、当時若手の一人だった多村仁志に特訓を課した。

 その落合氏は、一昨年11月に自らの公式ユーチューブチャンネルで「時間的に一番時間を使ったのは多村だよ。あとはグラウンドでそこそこのことは何人かの選手には指導はしてるとは思うんだけども。一番記憶に残っているのは多村」と回想している。

 当時の多村は、同じチームで活躍したロバート・ローズに似たフォームだったが、落合氏は「そんな打ち方じゃ2時間も3時間も打てない。長く打つには楽な構えから」とアドバイスし、「2、3時間で1500スイングは当たり前」というほど、徹底的にバットを振らせた。

 その結果、ふらふらになるまでバットを振りつづけた多村は、いつしか“ローズ流”は消え、自ずと理想のフォームを会得していた。

 といっても、すぐに効果が出たわけではなく、同年の多村は打率.163と苦しんだ。だが、その後も地道に努力を続け、04年に40本塁打を記録するなど、球界を代表する長距離砲になった。

 マンツーマンの特訓から10年後、ソフトバンク時代の11年の日本シリーズで、落合監督率いる中日と対戦した多村は、第3戦で勝利を決める“恩返し”の2ランを放ち、「落合さんが自分のバッティングを作ってくれた。(目の前で)打てたことがうれしい」と語っている。

 野茂英雄氏のアドバイスをきっかけに、エースへの道を歩みはじめたのが、オリックス時代の金子千尋だ。

 入団4年目の08年に初めて二桁勝利(10勝)を記録した金子は、当時シュートのコントロールで悩んでいた。

 右打者に対し、シュートを外側からいったんストライクゾーンに入れたあと、ゾーンを外れるように投げるには、球を大きく変化させる必要がある。そこで、シュートに近いシンカーを投げたいと考えた。

 そんな矢先、現役を引退したばかりの野茂氏が秋季キャンプの臨時コーチとしてやって来た。この好機を逃す手はない。金子は野茂氏に相談した。

 すると、野茂氏は投げ方を教えることなく、「一塁側から投げてみたら?」とアドバイスした。

 当時の金子は、プレートの三塁側に軸足を置いて投げていた。三塁側から投げると、右打者へのシュートは大きな変化が必要だが、一塁側ならリリースの位置が最初からストライクゾーンに来ているので、ボールをわずかに変化させるだけでゾーンに外すことができる。まさに“コロンブスの卵”だった。

 初めのうちは三塁側と一塁側の風景の変化に違和感を覚えたが、投げつづけているうちに、次第に”新しい風景”になじんでいく。

 この結果、右打者への苦手意識を克服した金子は、10年に17勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得するなど、押しも押されぬエースに成長。「二桁勝利を挙げ、ようやくプロとしてやっていく光が見えたときに、こうした変革ができたことは大きかったと思います」(自著「どんな球を投げたら打たれないか」 PHP新書)と野茂氏に感謝している。(文・久保田龍雄)

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。