国内外で様々な映画賞を受賞した濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』の音楽を手がけたことで、映画界で一躍脚光を浴びた音楽家、石橋英子。濱口監督と2度目のコラボレートとなる『悪は存在しない』が公開中だ。

シンガー・ソングライター/マルチプレイヤーとして20年以上の活動歴を持つ石橋は、これまでジャンルにとらわれない独創的な音楽を生み出してきた。サントラを手掛けるようになったのは2010年代に入ってからだが、学生時代に友人たちから自主制作映画の音楽を依頼されたことがきっかけで音楽活動を始めた石橋は、音楽以上に映画に影響を受けてきた。

例えば彼女の家族のルーツである満州をテーマにした『The Dream My Bones Dream』は、緻密に構築されたサウンドで映画のように雄大な物語を浮かび上がらせていく。また近年、石橋は即興演奏の音源を編集して一枚のアルバムにするというアプローチをとっているが、実験的でありながらも難解さを感じさせないのは、アルバムを通じて映画のような濃密な時間の流れを生み出しているからだろう。彼女が生み出す音楽は、リスナーの脳内に物語を浮かび上がらせる点で映画的といえるかもしれない。

そんな石橋が映画界から声がかかるのは自然な成り行きだった。石橋は2016年に『夏美のホタル』と『アルビノの木』のサントラを手掛けたが、『アルビノの木』でシネルファマ・リスボン・インターナショナル・フィルム・アワーズの最優秀音楽賞を受賞した。2018年には『無限の住人-IMMORTAL -』の音楽を担当。映画ではなく配信のアニメシリーズだったが、これまで石橋とは縁がなさそうに思えたアニメの音楽に挑戦して幅広い音楽性を持っていることを証明した。そして、続いて手掛けたサントラが『ドライブ・マイ・カー』だった。

心に傷を負った演出家、家福と寡黙なドライバーのみさき。『ドライブ・マイ・カー』は、そんな2人の関係を中心にした物語で車の移動シーンが多い。それだけに音楽はリズムやテンポが重要になってくるが、石橋はドラムにブラシを使ったジャジーで軽やかな音楽を作曲。濱口監督からは「風景のような音楽」というイメージが伝えられたそうだが、音楽が前に出ることがなく、それでいて映像としっかり結びついている。そのバランスが絶妙だ。

■映像に奥行きを与え、観客の想像に委ねる

石橋の映画音楽の特徴のひとつは、登場人物の感情を説明したり、観客の感情を誘導するような曲を作らないこと。その場の空気感を伝えるような音楽で映像に奥行きを与える。そうした音楽は登場人物の微妙な心理状況を描く映画にはあっている。続いて石橋が音楽を手掛けた映画『ほつれる』は、不倫相手が目の前で事故に遭って亡くなったことを誰にもあかせないヒロイン、綿子が関係が冷え切った夫の文則との生活を続けていくというシビアな人間ドラマ。石橋はメロディーやリズムを強く押し出さない繊細な音楽で、綿子と文則の微妙な空気を表現した。

濱口監督と再びコラボレートした『悪は存在しない』は作品の成り立ちが特殊だ。当初、石橋のライヴ・パフォーマンス用の映像作品を濱口が撮るという企画がスタート。濱口はストーリーがある映画をサイレントで撮り、それを観ながら石橋が即興演奏をつけることになった。そして、映画の制作過程で、濱口の提案により音声付きヴァージョンを作ることになる。それが『悪は存在しない』となり、その後、『悪は存在しない』の映像素材を新たに編集してライヴ・パフォーマンス用の映像作品『GIFT』が制作される。この2作は、石橋とのコラボレーションを念頭に置いて制作されたものだった。

そういう経緯もあって、『悪は存在しない』は他の作品に比べて音楽の存在感が大きい。特にオープニングとクライマックス・シーンで流れる、ストリングスで奏でられる重厚なメインテーマ曲は、映像と同じくらい強烈な印象を観客に与える。でも、その音楽が登場人物の誰の心理を表現しているのか。どんな感情を呼び起こそうとしているのかは明確ではなく、観客の想像に委ねられている。サントラを制作する際は、映画のどのシーンに音楽を使うかは濱口から事前に伝えられず、石橋は映画を見た印象をもとに自由に曲を作り、それを聴いた濱口が曲を選んでシーンに乗せていったという。そういった作曲家の創造力を尊重したコラボレーションが成立するのは、監督と作曲家が互いに信頼しあっているからこそだ。

映像の一部になり、観客が物語を想像する余白を作る石橋の音楽からは、映画に対するリスペクトと愛情が伝わってくる。今回の濱口とのユニークなコラボレーションを経て、石橋は映画音楽作曲家としてますます注目を集めていくに違いない。

文/村尾泰郎