2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト3を発表します。ゴルフ部門の第2位は、こちら!(初公開日 2024年3月11日/肩書などはすべて当時)。

NumberWebで展開中の「消えた天才」特集。本稿では、ゴルフ界に彗星のごとく現れた天才少女の軌跡を振り返ります。

 この30年ぐらいの間、世界のゴルフ界で最も大きな注目を浴びたのは、言うまでもなく、王者タイガー・ウッズだ。

 だが、最も激しい好奇の目を向けられたゴルファーは誰だったのかと問われたら、私は迷わず、「ミッシェル・ウィーだった」と答える。

 ハワイで生まれ育ったゴルフ天才少女は、史上最年少の13歳で2003年全米女子アマチュア・パブリック・リンクス選手権を制覇。その年、メジャー大会のクラフト・ナビスコ選手権と全米女子オープンに出場し、双方で見事、決勝ラウンド進出を果たして一世を風靡した。

33歳で引退「天才少女」のその後

「私は男子の試合に挑みたい。マスターズに出ることが私の夢です」

 そう言い放ち、世界のゴルフ界を驚かせたウィーは、そのときから、世間の好奇の目にさらされる日々となり、それでも荒波の合間を必死に泳ぎ続けた。

 もしも彼女が、ジェンダーレス時代と言われる今、ゴルフ界に登場していたら、もしかしたら何かが違っていたのかもしれない。

 だが、逆に言えば、性別の壁が厚く高くそびえていた時代に登場し、その壁に果敢に挑んだからこそ、ウィーは世界で唯一の希少な経験をしたと言えるのかもしれない。

 昨年、ウィーは33歳の若さで第一線から退き、表舞台から姿を消した。そんな「消えた天才」の歩みを振り返ってみよう。

「ハワイにゴルフの天才少女がいる」「地元で男子の大会に出ているらしい」という噂は、2000年代のはじめごろから、米本土まで伝わってきていたが、まともに取り合う米メディアは、当初はほとんどいなかった。

 しかし、彼女が2005年の全米アマチュア・パブリック・リンクス選手権で男子選手たちを押しのけてベスト8進出を果たすと、「ミッシェル・ウィー」の名前はメディアに頻繁に登場するようになり、「男子に挑む女子選手」「天才少女がマスターズ出場を目指す」といった見出しが躍るようになった。

 男子選手たちと伍して戦いたい、戦っていくと高らかにうたったウィーの宣言は、「勇気あるね」「面白いね」と好意的に受け取られた面もあるにはあった。だが、「生意気」「思い上がり」と批判され、野次も飛び、揶揄もされ始めた。

 比類なきゴルフの才能。恵まれた容姿。そして、望んだことにそのままチャレンジできる家庭環境、経済環境にあったウィーに対して、ジェラシーを抱いた人々もいたのではないかと思う。

 激しい賛否両論が渦巻き、大きな話題になっていったからこそ、ウィーの下にはPGAツアーや下部ツアーといった男子の大会から推薦出場のオファーが殺到。2004年のソニー・オープンを皮切りに男子の試合に挑み、そのたびに大勢のギャラリーやメディアが押し寄せた。

ボギーに熱狂する観客「それ見たことか」

「ウィーが出る大会は、まるでサーカスだ」と言われるほどの大喧噪になったが、そのサーカス見学に訪れた人々の多くは、ウィーにエールを送るより、むしろ何かしらのハプニングを秘かに期待していた感があった。

 ウィーがプロの男子選手をアウトドライブすると、大観衆はやんややんやの大騒ぎ。しかし、次打でその男子選手が見事にピンを捉えてバーディーを奪った一方で、ウィーがグリーンを外し、ボギーを喫すると、「それ見たことか」「力の差がわかっただろう?」と言わんばかりに冷ややかに笑った。

 そんな冷笑、嘲笑の空気があちらこちらに漂っていたことが、ウィーの心身をひどく疲弊させていたことは、試合会場の最寄りの空港で彼女の姿を一目見たとき、すぐさま理解できた。飛行機の搭乗を待つわずかな時間でもウィーはゲート前の椅子に座り、父親の肩に崩れるようにもたれかかって眠りに落ちていた。

 男子の試合で予選通過を果たせれば、世間の冷たい視線は温かいものへと変わったのだろう。しかし、それがなかなか叶わなかったことは、一層重いプレッシャーとなってウィーにのしかかり、彼女をとことん苦しめた。

「マルヤマサン、ゴメンナサイ」

 今でも忘れられないのは2006年のジョンディア・クラシックでの出来事だ。当時16歳だったウィーと予選2日間を同組で回ったのは、当時PGAツアーに参戦していた丸山大輔ともう一人は無名の米国人選手だった。

 試合会場は初日から、やっぱりサーカス状態。猛暑と緊張と大観衆からの好奇の目にさらされて、ウィーのゴルフは大荒れとなり、2日目は熱中症のような症状に見舞われて、ラウンド中に何度も座り込んだ。

 それでも彼女は「私を見に来てくれているお客さんに申し訳ない」と言って、プレーを続けていたが、同組の米国人選手は「プレーは遅いし、途中でドクターを呼ぶし、散々だ」と怒声を上げ、結局、彼女は途中棄権して救急搬送されることになった。

 去り際に、ウィーはフラフラした足取りで丸山に歩み寄り、「マルヤマサン、ゴメンナサイ」と覚えたての日本語で謝った。

 まだティーンエイジにしてウィーが抱えていた苦悩や悲哀をその場で感じ取った丸山は、優しい笑顔を浮かべ、無言で彼女の手を握った。思わず涙を誘われたあの場面は、今でも私の脳裏にしっかりと焼き付いている。

 2004年のソニー・オープンから2008年のリノタホ・オープンに至るまで合計14の男子の試合に挑んだものの、予選を通過できたのは、アジアツアーの1試合のみ。それ以外はすべて予選落ちを喫したウィーは、ついに男子ゴルフへの挑戦に終止符を打った。

 それより3年前の2005年には、16歳で米LPGAのQスクール(予選会)に挑み、狭き門を軽々突破。しかし、年齢制限に阻まれ、18歳の誕生日を迎えるまでは、正式メンバーとしてのフル参戦はできないと告げられた。

 そのころから、ウィーの姿はどこにも見られなくなり、「天才少女はバーンアウトして消えたのでは?」などと囁かれていた。

 そんな折り、ウィーが名門スタンフォード大学へ進学したというビッグニュースが全米を駆け巡り、かつての人々の好奇の視線は、今度は羨望の眼差しに変わった。

 以後、彼女は大学生活を送りつつ、19歳になった2009年からはLPGAに正式参戦。女子大生としてキャンパスライフを謳歌し、そして女子ツアーの選手として女子ゴルフ界の頂点を目指し始めたウィーは、以前とは別人のように明るい表情を輝かせていた。

ゴルフより家族を優先

 しかし、幼いころから酷使してきた彼女の肉体は、すでにボロボロに近い状態だったようで、手首や膝、腰などを次々に故障。LPGAで挙げた勝利は、かつての天才には似つかわしくない、わずか5勝に留まり、その中の1つとなった2014年全米女子オープンのタイトルは、ウィーの勲章となった。

 2019年にNBAのゴールデンステート・ウォリアーズのディレクター、ジョニー・ウエスト氏と結婚。翌年、長女のマケナちゃんを出産すると、ウィーの人生のプライオリティは、ゴルフではなく家族になった。

 そして、2023年の全米女子オープンを最後に戦いの世界から身を引き、妻として母としての生活を優先すると決意した彼女は「後悔はない」と言い切った。

 そして、世間の冷たい視線や好奇の目にさらされながら、それでも男子ゴルフの世界に挑んだ若かりし日々の自分自身を「大胆だった」と振り返った。

 その一言に彼女のどんな想いが込められていたのか。「怖いモノ知らずだった」「無理や無茶をした」といった反省の念も、少しぐらいは抱いていたのではないだろうか。

 しかし、誰もやらないこと、誰もやろうとしないこと、そして誰もやらなかったことを、「大胆にも私はやったのだ」という満足感と「大きな夢を見るのは楽しかった」という達成感が溢れていたように感じられた。

 大胆だったからこそ、後悔はない。だからこそ、かつての天才少女は早々に第一線から身を退き、自ら「消えた天才」となる道を選択したのではないか。私は、そう思っている。

文=舩越園子

photograph by AP/AFLO