5月6日、井上尚弥(31歳)の持つ4本のベルトを狙い、ルイス・ネリ(29歳)が6年ぶりに日本のリングに立つ。
なぜネリは日本のボクシングファンから嫌われるのか? 物議を醸すネリとの2試合を経験した山中慎介。これまで語ってこなかった想いを告白した「ナンバーノンフィクション」の抜粋記事を公開します。(全2回/取材後記編も公開中)
【記事全文は発売中のNumber1094・1095号、山中慎介「悪童・ネリと闘った189日間」に掲載されています】

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 8月15日、試合会場の京都は大雨が降り注いでいた。試合当日のロードワークは調子を測るバロメーターでもある。雨足が強くなっていく気配がありながらもホテルの外を走り出した。テーピングを巻いた左足の感触、そして体調も悪くないことを感じ取った。ちょっとコースを間違えたことも気分転換になった。

 すべてがいつもの世界戦と変わらなかった。地元の滋賀に近く、熱狂的な応援団が待つ島津アリーナ。入場曲『龍馬伝』のオープニングテーマに乗って、チャンピオンカラーの赤いガウンをまとって颯爽とあらわれると会場のボルテージは最高潮に達した。無敗の若きメキシカンを目の前にしても、過剰に意識することもない。

「ネリは思ったとおりだった」

 ここ数試合、序盤は様子を見る展開が続いたが、この日は違った。1ラウンドからリズム良く放つジャブをネリの顔面にヒットさせ、上を意識させたらスッとボディーにも打ち込む。左ストレートの感触も悪くない。ジャッジ3者が王者を支持する上々の滑り出しであった。

「ジャブが当たれば左も当たります。完璧ではないにしても最初からいい感じで当たっていて、タイミングさえ合えば左もいけるだろうと感じていました。ネリも思ったとおり。強烈な一発を持っているというより回転力で1、2、3、4と浴びせていってストップに持ち込むタイプだなって。回転に巻き込まれないように、そこだけは気をつけようと考えていました」

 以前ほどの軽快なフットワークを使えないため、ネリが連打を狙ってくれば顔の動きでパンチを受け流すスリッピングアウェーやクリンチを使いながら回避する。2ラウンド終了間際にはネリの強打を食らいながらも、逆に左ストレートを見舞った。照準が合いかけていた。

トレーナーがリングに飛び込んできた

 だが迎えた4ラウンドに悪夢が待っていた。回転力を上げて放つネリのラフなパンチを浴びてバランスを崩し、防戦に回るとなおも挑戦者が前に出て攻勢を強めてくる。

 ネリの左を顔面に受け、ロープ際へ。猛攻を受けて腰を落としつつも、逆に左を打ち込む活路を見出そうとしていた。自分が倒れる距離なら、相手も倒れる距離。そのときだった。トレーナーがタオルを持ってリングに飛び込んできた。

 山中は少し時間を掛けながら当時の心情を呼び起こす。

 長年支えてくれたトレーナーの判断を尊重したうえで、ゆっくりと振り返った。

「もっと自分が動けば良かったんでしょうけど、タイミングが合っていたので(ロープ際に)居すぎてしまった。詰まる時間が長くなるから相手の手もどんどん出てくる。確かに見た目は危なっかしいですよ。でもネリの回転力は速い一方で、単調なんです。自分の対応がちょっと遅れてしまって、どうしよっかなと思っていたのは覚えていて、そのなかでも隙を狙って左を当てにいくボクシングを最後まで続けようとしました」

「そういう気持ちでずっと泣いていた」

 5年9カ月守った虎の子のベルトを手放した。肩車されて喜色満面のネリとは対照的に色を失った表情でコーナーから動けない山中がいた。気がつけば涙が止まらなくなっていた。リングを降りるときも、控え室に戻ってからも。敗北という現実を受け入れられないかのように。

 宿舎のホテルに戻っても、心配して駆けつけた妻が見守るなかで延々と泣き続けた。

「12回防衛してきて、勝つのが当たり前になっていましたから。あのとき後援会のみなさんをはじめ、すごく応援してくれて、期待してくれて。その思いに応えられなかったと感じると、もう申し訳なさすぎて……。そういう気持ちでずっと泣いていたんだとは思います」

“まさかのドーピング違反”

 陥落から翌日の朝、世界チャンピオンの先輩で一緒に走り込みのキャンプを張るなど良き理解者でもあった長谷川穂積に自ら連絡を入れている。気持ちの整理がつかずに多くの電話に出られなかった一方で、ふと先輩の電話番号を探していた。3階級制覇を果たして王者のまま引退した長谷川もまた、現役時代に手痛い敗北を喫して王座から陥落した苦い経験を持つ。敗者となった孤独、絶望を知る先輩に知らず知らずのうちに助けを求めていたのかもしれない。

「まずはゆっくり休めばええよ」

 長谷川に電話を入れたのは初めてのこと。短い会話ではあったものの、労いの一言にどこか救われた気がした。

 応援に駆けつけた家族とともに京都から都内の自宅に戻り、ずっと閉じこもる。気分転換にとみんなで熱海旅行に出掛けたものの、花火大会で混みあっていたというオチをつけるのも関西人の彼らしい。

「静かなところに行こうって、夏休みの熱海を選択している時点で間違っていますよね(笑)。外は人であふれていたので子供とホテルのなかでずっと遊んでいました」

 ちょっと気が晴れたかなと思った矢先、ネリのドーピング違反の報道を知らされた。7月に実施した検査で筋肉増強剤に似た成分のある禁止薬物ジルパテロールに陽性反応を示したというのだ。気持ちが追いついていかなかった。割り切れない思いがあった。何をする気も起こらなくなっていた。

<《山中慎介・取材後記》編から続く>

文=二宮寿朗

photograph by AFLO