大学3年時に箱根駅伝8区区間新の走りを見せ、東海大初優勝の立役者として大会MVPの金栗四三杯も獲得した小松陽平。今年3月に陸上人生に終止符を打った本人が振り返る箱根優勝の「その後」とは――。(Number Webインタビュー全3回の第2回/初回から読む)

箱根駅伝後、日本代表に

 箱根駅伝初優勝、そして大会MVPを獲得し、流れに乗った小松陽平は、そのまま2019年2月の福岡クロカンで5位に入賞(学生3位)し、日本代表に選出された。3月末の世界大学クロスカントリー選手権大会に出場し、92位という結果に終わったが、世界の舞台を楽しんだ。

「足がちょっと痛かったんですけど、ジャパンのユニフォームを着て走れたことは、すごくうれしかった。世界には、強い選手がたくさんいるなぁって実感し、すごく刺激になりました」

 大学3年の充実したシーズンを終え、4月から最上級生になった。チームを引っ張っていく学年になったが、なかなか調子が上がらなかった。

「なぜ、走れないのか、すごく悩みました。たぶん、箱根で自分の実力以上のものを出してしまった。クロカンもそうで、その反動が来ちゃったのかなと思いました」

お前を外したことを後悔させてくれ

 関東インカレ10000mに出走したが、小松は33位と振るわなかった。それでも夏合宿を越えると調子が上がってきた。出雲駅伝は各区間の距離が短いので、スピードに自信がある小松は自分の出番だと思っていた。

「調子がすごく良かったんですけど、出走メンバーに入れなかった。実績でメンバーが決まった感があったので、『箱根駅伝でなぜ優勝できたのか、もう忘れたのかよ』と思い、めちゃくちゃイライラしていました。出雲が4位に終わった日の夜、同じ出雲で5000mの記録会があったんです。そこで西出(仁明)コーチに、『お前を外したことを後悔させてくれ』と言われて。正直、出雲(駅伝)を外された怒りだけで走って、僕と郡司でワンツーフィニッシュしたんです。それで、ちょっとだけ気持ちが晴れました」

監督から「全日本では必ず使う」

 レースが終わった夜、両角速監督の部屋に呼ばれた。記録会での態度が悪かったので、怒られるのかなと思ったが、両角監督は「お前を使った方がいいという意見も多くあったが、今回は走らせることができず、申し訳なかった」と、小松に謝った。

「びっくりしました。これまで監督が謝ることなどまったくなかったので。同時に、『全日本では必ず使う。だから準備しておいてくれ』と言われました。そう言われた以上、これは絶対に(レースで)外すわけにはいかない。レースの1週間前、熱があったんですが、必死に調整しました」

箱根駅伝優勝の本命に

 全日本大学駅伝、小松は1区を駆け、区間3位と好走した。東海大は、アンカーの名取燎太が素晴らしい走りで青学大を逆転し、優勝を果たした。

 箱根駅伝の前哨戦とも言える全日本で強さを見せたチームは、箱根の本番も優勝候補の筆頭に上げられた。全日本では同期の館澤亨次、鬼塚翔太、阪口竜平、関颯人ら主力を欠いた中での優勝だった。彼らが戻ってくれば、重厚なオーダーが組める。

 だが、箱根に戻って来たのは館澤と鬼塚だけだった。2019年の箱根初優勝時、逆転のキッカケをつくった阪口と2017年の出雲を制した時のアンカーだった関は怪我の影響で不在だった。

「それでも僕は勝てると思っていました。4区を希望していたんですが、往路は僕が入る余地がないほどメンバーが揃っていたし、復路も4年生が4人も入った。これで負けるはずがないと自分たちを信じていました」

8区で受け取った時の差は「2分01秒」

 しかし、箱根駅伝は、甘くはなかった。青学大が駅伝力の強さを見せ、往路優勝を果たし、東海大は3分22秒の差をつけられた。それでも復路での逆転を目指し、6区の館澤が区間新の走りで1分近く差を縮めた。だが、8区の小松が襷を受け取った時は、2分10秒の差があり、相手の背中はまったく見えなかった。

「単独走は、しんどかったですね。もともと僕は、練習でも誰かのうしろについて走ることが比較的多かったんです。だから、自分でペースを作るというのがなかなか難しくて……。実際、茅ヶ崎を過ぎた10キロ地点までかなりハイペースで入ってしまい、しかも沿道から青学とこのくらい離れたぞって言われてメンタル的にも追いこまれていた。ラスト400mの時、内定していたプレス工業の人達がいて、『区間賞、青学大に2、3秒負けているぞ』と言われて最後、スパートしたんですが、不完全燃焼でした」

プレス工業入社の理由

 小松は、声援に後押しされ、青学大の岩見秀哉と1秒差で8区区間賞を獲った。しかし、青学大との距離は詰められず、2連覇を達成することができなかった。このレースは、悔しさに覆われ、今もその時のビデオを見れずにいる。

 東海大を卒業した小松は、プレス工業に入社した。

 神奈川県に本社があり、チームはニューイヤー駅伝への出場を目指していた。小松は、大学2年の時に、入社を決めていた。

「当時の上岡宏次監督が1年生の時から見ていてくださって、2年の秋に『うちに来てほしい』と言われたんです。まだ、何も結果を出せていない中、自分を評価してくれて、しかも大切にしてくれそうでしたし、すごく熱い人だった。チームはニューイヤー駅伝に出れるかどうか、ギリギリのレベルだったんですけど、上岡監督と一緒にやりたいと思って決めました」

監督が突如辞任

 新しい環境に慣れ、ニューイヤー駅伝の予選会となる東日本実業団駅伝に小松は出場した。エースになった小松は1区10位とまずまずの走りを見せたが、総合順位は14位に終わり、ニューイヤー駅伝出場の切符を手に入れることができなかった。

 そのレースが終わった翌日、チームに激震が走った。

 上岡監督が家庭の事情で監督を退任することになったのだ。監督を信頼し、慕ってプレス工業に入社した小松は、「監督と一緒にやって行きたいからプレス工業を選んだ」という初志を曲げることなく、その日のうちに「移籍させてほしい」とチームに願い出た。

誰かを追いかけて成長したかった

「やっぱり監督がいなくなるのが大きかったですし、ここにいると僕がエースで、チームを引っ張る側になることになる。大学では強い同期に追いつき、追い越そうと思って成長できた。その時みたいに僕はまだ誰かを追いかけて成長したかった。そう考えるとチームに少し物足りなさを感じていたところもありました」

 チームからは「4、5日考えろ」と言われた。だが、小松の決心は変わらなかった。改めて移籍したい旨を伝えると「分かった。小松が行きたいところ、どこでも話をつけるから」と言ってくれた。スタッフが他の実業団チームを探してくれる前に、小松はいくつかの条件を伝えていた。

「わがままを言わせてもらって申し訳なかったのですが、ひとつはニューイヤー駅伝で優勝を狙えるチーム。大学時代の全日本や箱根の優勝は、すごくいい思い出として残っていて、やっぱり勝ちたいなと思ったんです。そして、東海大の選手がいないチーム、すでに自分を知っている人がいる環境とは別の新しい環境に身を置けたらと思っていました。あと、パフォーマンス向上のために歯の矯正をしていたんですけど、信頼している歯科医院が都内だったので、関東圏内が希望でした」

五輪を目指しますと口にしていたけど…

 小松が東海大時代、輝いたのは個人種目ではなく、駅伝だった。仲間と力を合わせて戦う駅伝の魅力にハマり、駅伝が大好きだった。ニューイヤー駅伝にこだわったのは、その駅伝を走りたい純粋な気持ちと個人種目の舞台で輝きを放つのは難しいと自覚していたからでもある。

「僕は、口では五輪を目指しますとか言葉にしていましたけど、実際は五輪とか世界陸上とかはほとんど考えていませんでした。実力的にも厳しいなと思っていましたし、やりたいことが駅伝だったので、自分が輝ける駅伝をやれるチームでと思ったんです」

 チームが他の実業団チームに打診すると、複数から獲得の声が届いた。まだ23歳と若く、東海大の箱根駅伝初優勝の立役者の名声は活きていたのだ。

日立物流に入社を決めた理由

 小松が最終的に決めたのは、日立物流(現ロジスティード)だった。決め手のひとつになったのは、プレス工業の時と同じく、指導者だった。

「ロジスティードを選んだのは、条件が合致したことに加え、別府(健至)監督の存在が大きかったです。大学の同期の館澤と西川(雄一朗)は、本来なら日体大に行く予定だったんですけど、別府監督が退任するので東海大に変更したんです。実際、監督と話をして指導への熱心さが伝わってきましたし、信頼していたプレス工業の上岡監督と別府監督が仲が良かったのも大きかった。入社に対して特に支障はなかったので、ここでやらせてもらうと決めました」

 2021年1月、小松は日立物流に移籍した。新しい環境で、さらに成長していこうと、大学時代のようにギラギラしたものをたぎらせていた。

<つづく>

文=佐藤俊

photograph by Nanae Suzuki