大久保剛志選手にはじめてインタビューしたのは、2015年のこと。当時、彼はサッカー選手として10年目のキャリアをタイで過ごしていた。早いもので、あれから9年。当時、「いつかタイと日本をつなぐような存在になりたい」と語っていた大久保選手は、バンコクFCでプレーを続けながら、タイと日本でサッカースクール事業を展開していた。

「タイと日本をつなぐ存在」という夢を語ってくれた彼のあれからの歩み、今の想い、そして、これからの夢を聞いた。

――選手としての活動に加え、現在行っている活動についてもうかがえればと思います。まずは現在の選手としての活動を教えてください。
【大久保剛志】チームはバンコクFCに所属(※今季14試合中12試合スタメンで出場中)しています。リーグはタイ・リーグ3部です。今年で2年目のシーズンになります。

――大久保選手のタイでのプレー歴は約10年、これまでの所属クラブを教えてもらえますか?
【大久保剛志】タイではこれまで、バンコク・グラスFC(現BGパトゥム・ユナイテッドFC)、PTTラヨーンFC、MOFカスタムズ・ユナイテッドFC、ネイビーFC、ラヨーンFCに所属し、現在のバンコクFCとなります。

【大久保剛志】ここ10年で1部リーグ、2部リーグ、3部リーグと経験してきました。今のバンコクFCは3部から2部に昇格しようと力を入れているチームです。昨シーズンも昇格まであと一歩だったのですが、今シーズンは2位にかなりの差をつけて1位につけているので、2部昇格が見えてきています(※今季11連勝を記録しタイリーグ記録を更新)。

――タイ・リーグのシーズン期間について教えてください。
【大久保剛志】コロナ前は、ほぼほぼJリーグと一緒だったのですが、コロナ後、未消化の試合が半年間たまっている状態で、“タイらしく”というか(苦笑)、「このままスタートしよう」「せっかくだからヨーロッパ(のシーズン期間)に合わせよう」となって、まさかと思ったのですが、コロナ後からはヨーロッパと同じ9月ごろに開幕して4月とか5月に終わるようになりました。このシーズン制度が始まって、今1、2年目の段階です。

――新しいシーズン期間にはもう慣れましたか?
【大久保剛志】お正月はオフというのが染み付いていて、今回もそうですが、1月もシーズン中で正月休みがほぼないので、そこだけが慣れないですね(苦笑)。

――コロナ前後、バンコクの街はどんな状態でしたか?
【大久保剛志】コロナ期間中は本当に大変でした。旅行者は全員受け入れなし、夜間の外出禁止令も出て、夜9時以降に街を歩いていたら捕まるという状態が2、3年続きました。僕自身も一度も国外に出られず、ずっと缶詰でした。正確には、日本に帰れることは帰れるのですが、一度帰るとタイに戻れないというルールのため、2年半ずっとタイを出ずにいました。コロナも明けて、今は観光者も多いですし、ようやく昔に戻りつつあるのかな。ひょっとしたら昔よりインバウンドも増えているのかなという感じです。

――この10年で通貨の価値も大きく変わりましたね。
【大久保剛志】昔は1バーツが約3円だったんですよ。でも、今は4.2円とか4.3円とか、4円を超えているので、タイバーツを円に変えると少し得な感じはしますけど、逆は損している感じになりますね。

――クラブからの給与はバーツですか?
【大久保剛志】はい、バーツです。

――タイ・リーグのクラブで、かつては給与の未払い問題などが指摘されたこともありますが、今はそうした課題は解決されていますか?
【大久保剛志】もう全然ですよ、変わらずで(苦笑)。1部、2部、3部と所属リーグにある程度、比例してくるのですが、つい最近、1部リーグでも、あるクラブが何カ月間か給与未払いで選手全員で警察へ行ったりとか、対策を強化すべきことはまだまだあります。2部になるとそれが2、3チーム増えて、3部になるともっと増えてみたいな感じですね。コロナ禍で不景気になり、経営が苦しくなったオーナーさんもたくさんいるので、そのタイミングでクラブを手放した人もたくさんいます。

――所属先のバンコクFCは大丈夫ですか?
【大久保剛志】バンコクFCは母体がしっかりしていますし、チームにも資金をかけている状況なので、そこは問題ないと感じています。

――安心しました。大久保選手はタイでプロサッカー選手をしながら起業もされています。起業したタイミングと、なぜ起業しようと考えたのか教えていただけますか?
【大久保剛志】起業したのは2020年5月。タイでサッカースクールを立ち上げました。もともと2011年の東日本大震災で、僕の地元の仙台(岩沼市)が被災したことをきっかけに、「GOSHI SMILE FOOTBALL」というサッカースクールを開きました。スクールを継続するなかでたくさんの子どもたちと関わるようになり、それをタイでも始めました。年に1回、日本とタイで大きなイベントを開いています。年に1回ですし、テーマは「楽しく」というものだったのですが、「今までの自分の経験や想いをもっと伝えたい」と心境が変わっていき、そのタイミングで自分のスクールをタイで立ち上げたのが経緯です。スクールの名前は「YUKI FOOTBALL ACADEMY」です。

【大久保剛志】復興支援活動は行っていたのですが、やはりかなりの経費がかかり、少しずつ規模も大きくなるなかで、「ずっと続けたい。ただ、継続が難しい」と正直感じていました。「今は大丈夫だけど、選手を辞めたらどうなるだろう」という不安は、活動を継続しながらもずっとあったんです。そんなとき、僕個人の活動を応援してくれていたサーフィンブランドのYUKIブランドさんが「そのイベントすごくいいね」と言ってくれて、継続するための費用を全額出してくれるという、とてもありがたいお話をいただきました。毎年継続できているのは、イベントにかかる経費をYUKIブランドさんが支払ってくださっているからです。その恩返しがなかなかできていなかったので、自分が立ち上げるスクールのチーム名にYUKIさんの名前を記させてもらい、「YUKI FOOTBALL ACADEMY」と名づけました。もちろん、スポンサーや株主には一切なってもらわず、名前だけお借りして、いいクラブを作って恩返しをしたいという想いでYUKIという名前をつけさせてもらいました

――YUKIブランドの方とは、もともとお知り合いだったのですか?
【大久保剛志】はい、もともとはタイで出会い、僕の復興支援活動を評価していただいて、その活動をバックアップすると言っていただきました。

――確かに、支援活動の継続には活動資金が必要ですね。
【大久保剛志】オリジナルのユニフォームを全員にプレゼントするといったことをずっとやっていましたし、プロのサッカー選手を毎回10人以上呼んでいました。彼らに来てもらうための移動費などを含め、やはりまあまあな金額になっていたので、継続しないといけないと思いながら、いやー厳しいかな…というところは正直あったんです。
 
【大久保剛志】YUKIブランドさんのおかげでずっと続けてられている状況です。2年前に「GOSHI SMILE FOOTBALL」というサッカー教室から「YUKI FOOTBALL CUP」という大会に変えて、たくさんのチームを誘致して大会を行っています。

――現在、サッカースクールの会員はどれくらいですか?
【大久保剛志】バンコクが250名でそのうち100名くらいがタイ人です。日本校は2023年4月に開校して、今120名です。

――タイではどういう声がけを?
【大久保剛志】立ち上げ当初は40名スタートでした。40名でも「すごいね」と言われていたのですが、僕たちの決めごととして「ピッチ内でのマイナス発言の禁止」を掲げていました。とにかくポジティブな声かけをして、ミスしても周りの選手が盛り上げようといったことを掲げていたら、いじめもなく、子どもたちが嫌がりながら行くこともないということで、保護者の方々のなかで「預けやすい」「安心して通わせられる」というクチコミがどんどん広まっていって大きくなりました。タイの中で2番目の規模になっています。

――タイと日本の子どもたちとのコミュニケーションはどうですか?
【大久保剛志】タイの子も日本の子もまあまあ英語が話せるんですよ。共通語としては英語を使い、片言でも通用しています。小さいころからそういった環境に身を置くと言葉が自然と出てくるようで、あのコミュニケーション力はすごいと思いますね。開始当初は「日本とタイの子どもたちは絶対うまくいかない。別にしたほうがいい」と言われたのですが、そんなことはないだろうと思っていました。仮にそうであれば、それは指導者側がそういう空気感をつくってしまっているんじゃないかなと。あとは、日本人よりもタイ人のほうが自由なので、問題がいろいろと起きるという話もあって、けっこうな人に止められたんですよ。でも、僕がサッカーを通して経験したのは、ボール1個でみんなが友達になれること。だから、そのサッカーの魅力を全面に出したいという想いがありました。

――国民性など、違いを感じる部分はありますか?
【大久保剛志】決まりごとをしっかりと守ろうとするのが日本人。決まりごとがあってもないようなものがタイ人。そういうところはありますね。たとえば、試合時間から逆算して集合時間を決めているのに、タイの子はウォーミングアップ中に来るとか(笑)。「約束ごとは守らなきゃいけないよ」と話し、準備ができている日本人がスタメンで出ることはあります。そうするとタイの子の親御さんから「息子はうまいのに、どうしてスタメンじゃないの?」と言われたりしますが、ちゃんと理由を話してわかってもらう。そういったことはいたるところでありますね。

――日本のスクールの声がけは?
【大久保剛志】どちらかというと僕発信ではないんです。自分の育った町は仙台の南のほうにある仙南地域で、この地域が抱えているのが少子化問題です。沿岸部は津波の影響で住めなくなり、引っ越しを余儀なくされた方が多くいらっしゃいます。復興はしたものの仙台の中心地に住んだり、県外に行ったりする方が多く、人口が激減しているんです。仙台の中心地はまだまだ人口が多く問題ないのですが、南の地域になるとクラブチームすらなかったり、人数がいないので、たくさんあったサッカー少年団も潰れていたりする状況です。1チームもない町もあって、僕が小さかったころには考えられないような状況になっています。

【大久保剛志】僕たちがスクールを立ち上げる3年ほど前から、そのエリアの指導者会議で「今後やばいぞ」と、今あるチームがどんどん減少して、数年後には1年生から6年生を集めてもチームを作れない状況が現実になるという話がありました。「どうする?」と課題には挙がるのですが、率先して改革しようという人は誰もいらっしゃらなかった。なぜかというと、何かをやるとすれば、もうクラブチームにするしかないからです。クラブチームになると専属のコーチを入れないといけないし、そこには当然、費用がかかってくる。少年団だったら、パパコーチのように、お父さんやお母さんがほぼボランティアで監督をしているんですが、そういう組織をつくるのであれば専属にする必要があり、専属を置くならお金がかかる。さらに、クラブチームを立ち上げたところで、5年後、10年後が見えない。だから、誰も手をつけられない状況だったんです。

【大久保剛志】そんななか、僕が地元で所属していたチームの団長から連絡をいただきました。その方は昔から地元のみんなが知っている85歳の方で、僕の恩師でもあります。「今こういう状況だけど誰も立ち上がらない。40年間、仙南のサッカーを見てきたから、このまま終わっていくわけにいかない。今、何かをやらないと手遅れになる」という内容でした。岩沼西サッカースポーツ少年団というチームで、仙南エリアで唯一、ある程度の人数がそろっているチームだったんです。

【大久保剛志】そのチームをなくして、全員を移行してでも新しい組織を作り、どこからでも通えるような大きなチームをひとつ作らないともう受け皿がない、と。僕がバンコクでスクール事業を始めていて、それがだんだん大きくなっていることを知ってらっしゃいますし、加えて仙南出身のプロサッカー選手があまりいないという状況もあり、「剛志が立ち上がればみんなもついて行くから、お前がやれ」と言われました。

――白羽の矢が立ったんですね。
【大久保剛志】自分自身、タイでサッカースクールを立ち上げてめちゃくちゃ苦労しましたし、そんなに甘くないことはわかっていました。でも、明るくない未来が見えているので、「ボランティアのレベルでしたら力を貸せます。けど、起業したり、立ち上げはしんどいです」と正直に話し、お断りしたんです。「すごくうれしいですけど、僕には荷が重すぎます」と。不用意に受けるのは無責任ですし、仙南のサッカーをぐちゃぐちゃにしてしまう可能性もあるので、「僕の手に負える範囲ではないです」と話しました。でも、それから1カ月後ぐらいにまた電話をいただいて「やっぱり考え直してくれないか。そうでないと、本当にもうだめだ」という内容でした。恩師からの依頼ですし、自分が育ったクラブでもありますし、その恩師が一番愛しているチームを変えてでも今変えないといけないという思いって相当なものだとあらためて感じました。だから「やれるだけやります」と引き受け、バンコクの「YUKI FOOTBALL ACADEMY」を仙南に開校しました。

――決断したんですね。
【大久保剛志】一番の目的は、ビジネスではなく、普及。とにかく、仙南にサッカーを残すことが目的です。そうなると、まずは月謝の問題があります。仙台のクラブのように月謝を1万円とか1万5000円に設定したら誰も入ってこない。少年団は3000円とか4000円でやっているので、1万円以上の月謝にしてしまうと誰も入ってこないんですよね。とはいえ、将来は子どもも減るし、どうしようと考えました。運営を考えると単価を上げないとやっていけない。でも、それは想いと反比例してしまう。考えた結果、ジュニアの料金を県内最安値の6700円に設定しました。

――どういったサッカースクールになりますか?
【大久保剛志】バンコクでサッカースクールを立ち上げたときも同じなんですけど、自分自身が育ってきた環境で「これが足りない」あるいは「足りなかった」とか、大きくなってから知ったことがたくさんあって、「小さいころにこれをやっていたらもっとよかっただろうな」ということを強く感じていたので、これをやったほうがいいと思うものは全部詰め込んでいます。バンコクでは、たくさんのプロサッカー選手が常に来てくれたり、英語で教えたり、ピッチ内でのマイナス発言を禁止にしたり、それから食育なども行っています。同じ名前のスクールですし、同じスタイルでいきたいと考えました。スペイン人の先生を呼んで、スペインの徹底したサッカーを教えるのと同時に、彼は英語も堪能なので、子どもたちが常に英語を聞きながら練習するという環境です。週1回は彼の無料英会話教室で、広場を借りて英語の授業を1日やっています。とにかく英語ができる子どもたちを増やしたいというのがひとつ。それから、ベガルタ仙台にいる僕の先輩のプロサッカー選手が専属コーチになってくれました。彼はA級ライセンスを持っていますし、本物の指導を受けられる環境になっています。

【大久保剛志】食育に関しては、東北生活文化大学・家政学科スポーツ栄養学研究室の川俣(幸一)教授と組んでいて、「パワーボール」と僕が名づけたおにぎりを練習直後に必ず食べます。このパワーボールで1日に必要な栄養素が摂取できるようになっています。練習が終わったあとにお菓子を食べるより、これを食べたほうが成長につながるので、軽食として食べてもらい、「家に帰ってちゃんと夕食を食べましょう」という声がけ、働きかけをしています。

――かなり詰め込んだ内容ですね。
【大久保剛志】はい、中途半端にはしたくないので。ただ、パワーボールにしても1個あたりの金額はけっこうかかっていて、それを月謝に載せてしまうと1万円を超えてしまいます。ですので、全額クラブ負担にして無料で提供しています。年間換算すると300万円ぐらいになるのですが、これはすべてクラブで払っています。あと、一番の問題は、子どもたちの交通手段。岩沼という地域をメインに活動しているのですが、いろいろな地域から通ってもらえるように、周囲のすべての市町村に送迎バスを出しています。1時間くらい離れているところや、県を超えて福島から通ってくる子もいます。

――運営コストもかかりそうですね。
【大久保剛志】専属のコーチやボランティアのコーチも5名いますし、彼らへの給与など必要な人件費もありますし、普通に試算すると成り立たないですよね(苦笑)。でも、妥協せずにやりたいと僕は思っています。ありがたいことに、このプロジェクトを地元の企業がめちゃくちゃ応援してくれていて、「子どもたちに光を」「こういうものが欲しかった」といったことを言ってくださっています。立ち上げて1年も経っていなくて、まだ明確な形もないなかでユニフォームを作成したのですが、50社以上の地元企業にスポンサーについていただくことができました。町のクラブのアカデミーではあり得ない金額が集まり、何とか運営している状況です。本当に、町に支えてもらって活動しています。今、市も絡めながら、自分たちの専用スタジアムを作ろうと動いているのですが、これが完成すれば子どもたちにとってとてもいい環境になるのではないかと思います。

――ベガルタ仙台の協力も大きいようですね。
【大久保剛志】はい、この活動を立ち上げる前からベガルタ仙台が応援してくれて、提携することができました。僕は、ベガルタにずっと育ててもらったので、本当にうれしく感じています。地理的に、仙台市から遠い子たちは、どんなにいい選手がいてもなかなか仙台まで通えないんですよ。中学生からは体力もあるし、ある程度遠くても通えますが、小学生だと移動時の安全面も含め、親も通わせようとは思わない。だから、このエリアに関しては小学6年生まで僕たちが徹底的に見ます、と。そして中学生の年代から、いい選手をどんどんベガルタに送り込むというのが僕の想いです。ベガルタに少しでも強くなってもらって、ベガルタでひとりでも多くプロサッカー選手になってもらいたいとベガルタに伝えました。「今までそのエリアの子たちを支えられなかったから剛志に託す」と言っていただけて、すごくいい経験をさせてもらっています。エスコートキッズをさせてもらったり、たくさんのホームゲームに誘ってもらったり、ベガルタ仙台の選手がめちゃくちゃ来てくれたりするので、子どもたちにいい環境を提供できていると思っています。

――地元企業もそういう場所、地元を支えられる場所、地元に協力できる場所を求めていたということなんでしょうね。
【大久保剛志】相当な決断だと思います。というのも、活動が目に見えるものであれば賛同できると思いますけど、ただ僕が言っているだけなので。その決断が正しかったと思ってもらえるように、この1年かけて必ず、と考えています。今も、メンバー全員で町のゴミ清掃をしたり、サッカー以外の活動もしています。サッカーでも、この8カ月ですべてのカテゴリーで上位に食い込むことができました。U8(小学1・2年生)、U10(小学3・4年生)、U12(小学5・6年生)の全カテゴリーで上位に食い込んで、U12のチームはベスト4まで進みました。サッカーの面でも少しずつ評価していただけています。

――プレッシャーも大きいですね。
【大久保剛志】プレッシャーですね。魅力あるチームにしないといけないですし。がんばります。とはいえ、スポンサーさんに頼り切りというわけにはいきません。バンコクでも最初はスポンサーさんに頼ったのですが、今は人数が増えて自力運営ができていて、いただいたスポーンサー料をよりいい環境に回せるようになっています。日本でもそこを目指して、今は会員を増やし、とにかく自力運営ができるように最短でいきたいと思っています。

――クラブを経営しながら、宮城の観光PR大使や地元の岩沼でも観光大使として活動されていますよね。
【大久保剛志】「いわぬま健幸大使」をしています。PR活動のほか、パーソナルトレーナーの資格を持っているので、年配の方に健康を維持するためのエクササイズや運動の場を提供させていただいたり、夢を持ってもらうことをテーマに、学校で僕の経験を子どもたちへ話させていただくといった活動もしています。

――現役でプレーをしながら、サッカースクールの経営やPR活動まで、率直に言って、「よく回ってるな」という印象です(笑)。
【大久保剛志】もう3年間、休みはないですね(苦笑)。練習が週5日で週1日が試合、もう1日がオフで、基本的にオフの日は体を休ませないといけないのですが、ミーティングがあったりしますし、いかにオフの日に仕事をこなせるか、でやっています。今しかできないですね。

――活動のモチベーションは?
【大久保剛志】一番は会社をバンコクで立ち上げたことがきっかけですね。最初は小さい組織で、一緒に始めたスタッフにも満足のいくほどのお給料を払えない状況から始まったので、いかにいいものをつくってそこを高めていけるか、彼らや周囲の期待に応えたいというところにフォーカスしてきました。どんどんスタッフが増えていき、もっともっととなって、日本側も立ち上げましたし、特に日本側はまだまだ赤字ですから何とか形にしないといけないですね。地元ではterra鍼灸接骨院(2020年開院)という接骨院も運営しています。子どもたちが自由にプレーできて、ケガをしない環境をつくるということを考えながら治療に力を入れています。2024年4月からはYUKI山元校、YUKI Baseballを開校予定です。

――野球も?
【大久保剛志】サッカーだけでなく、すべてのスポーツに課題があるんですよ。岩沼市からも「できれば全部のスポーツを見てほしい」と言われています。

――サッカー選手なのに、という展開ですね(笑)。
【大久保剛志】ほんとに(笑)。指導者の環境の課題もあり、岩沼市の部活はほぼ機能しなくなってくるんです。そうすると、部活をやっていた子どもたちはもうスポーツができなくなってしまう。サッカーに限らず、野球やバスケットボール、バレーも全部です。今、地元の高校の先生がパートナーになってくれて、元楽天の選手の方たちもどんどん協力してくれています。YUKI Baseball は4月からの立ち上げに向けて動いていて、子どもたちの受け皿になれたらいいなと思っています。

――体がひとつでは足りないですね。
【大久保剛志】足りないですけど、めちゃくちゃ充実していますね。

――現役のプロアスリートでありながら、サッカー以外のチャレンジもかなり積極的にされているのは、どういう考えからですか?
【大久保剛志】正直、サッカーとの両立はものすごく難しいです。バンコクの「YUKI FOOTBALL ACADEMY」も宣伝をしないと成り立たないので、積極的に宣伝活動を行っています。宣伝するともちろん周知できますが、一方で、自分のパフォーマンスが悪かった試合のときは宣伝しづらくなります。クラブやサポーターから「サッカー以外に専念しているからだ」と言われてしまいます。さらにタイリーグの厳しいところは、外国人アジア枠が1枠しかないので、代えがいくらでもいることです。常に成績を残さないとクビになるので、マイナスはつくりたくない。でも、失点に絡んでしまうとか、チャンスで外してしまうといったことはシーズン中に必ず起こります。そんなとき、一気に叩かれるんですよ。「サッカーに集中してないからだ」と、そこにフォーカスされてしまいます。

【大久保剛志】ほかの選手よりも風当たりは強いように思いますが、発信しないことには会社を続けていけないので、その難しさは本当に感じています。逆に言えば、そこを言い訳にしないように、ピッチ内ではめちゃくちゃ完璧にやろうと思っていますし、力を入れています。けがを隠して試合に出るとか、少しでも疲れないように一生懸命に何とかやっていて、そこがつらいところですね。では、なぜサッカー以外のチャレンジを行っているかというと、引退後の人生にものすごく不安を感じているからです。

――引退後を見据えて?
【大久保剛志】はい。これまで、選手として終わっていくたくさんの先輩方を見てきました。僕が高校を卒業してチームに入ったばかりのときに輝いていたたくさんの方が、5年後、10年後に引退されて、成功される方とそうではない方に道が分かれていて、学ぶものがたくさんありました。引退後も人生は長い。自分も不安や危機感を覚えています。だから、自分がやりたいことをしっかりやっておかないと後悔するんじゃないか、という思いがあるんですよね。サッカーを全うして、引退直前に考えて、次の道を決めるのももちろんいいし、悪くはないとは思うのですが、もしそれが自分の本当にやりたい道ではなかったら…先が長いのですごく迷うのではないかと思います。だとしたら、子どもたちにいろいろな経験をしてほしいという想いであったり、せっかく今、バンコクと日本にいるので、そこを行き来して、「世界って広いんだよ。日本の当たり前が当たり前ではないんだよ」と彼らに感じてもらえたらいいなって思います。そのためには、今ちゃんと形にしないとだめ。その考えが一番強いですね。

【大久保剛志】そもそも僕は成功した選手ではないので、たとえば、常に成功して、たくさんのお金があってという状況だったらまた違っていたと思うのですが、毎年岐路を迎えて、いつ引退するかわからない選手だったので、なおさら引退後を考える時間も多かったと思います。

――とはいえ、現役のプロとしてプレーしながら、それ以外のチャレンジも真剣に続けているのは、シンプルにすごいと思います。
【大久保剛志】3部リーグではありますが、前期が終わり無敗で1位。11連勝でタイリーグの記録もつくりました。この歳になってもそういうことに携われてうれしいなと思いますし、選手としてもすごく充実していてありがたいですね。

――答えにくい質問かもしれませんが、大久保選手はプロとしてのゴールラインといったものをどれくらい意識していますか?
【大久保剛志】毎週、毎週が勝負なので、体もきつくなってきてますし、特に90分終わったあとはタイならではの暑さもあって、ロッカールームに戻ったときの疲れ具合が若いころと全然違います。体力は相当落ちていると思うのですが、ありがたいことに、次の試合までには回復するんです。試合後のしんどさは隠せないですが、次の試合のウォーミングアップが始まるときにはかなり戻っていて、またスタートから全力でいけるので、そこは自信のあるところですね。試合当日に回復していないようになったら、厳しいかなという気はしています。

【大久保剛志】ウォーミングアップとキックオフの笛でスイッチをどれだけ入れられるか、しんどくても自分を“麻痺”させられるか、なので。今はそれができているからいいのですが、「もう疲れたな」となったらピッチに立つべきではないと思います。正直、そんな日が、近々来るとは思うのですが(苦笑)。

――20代と30代では違ってくるでしょうし、同じ30代でも中盤を過ぎると違いますか?
【大久保剛志】まったく感じないほうだったのですが、35歳できましたね(苦笑)。今37歳で、35歳の年はちょっとアンラッキーもあったんです。

――アンラッキー?
【大久保剛志】年間を通してずっと負けていたんです。負けているって、相当くるんですよね。90分の試合で、2-0で勝っていたとしたら、点を取られないサッカーに切り替えます。つまり無理をしないから、体力的な面でも違いが出るんです。残り10分、無理をせずに守り切れば勝てるという展開ではセーブできるんです。でも残りの10分、0-2で負けている展開では最後のラスト1秒までスプリントしないといけない。そういう試合が続いていました。残り10分がきつい試合を毎週やっていて、なおかつ負けているので、心身ともにダメージがきて、コンディションがかなり崩れました。

――確かに、置かれた環境の影響も大きいですね。
【大久保剛志】その年の所属チームが勝っているチームだったら、あまり感じなかったかもしれないです。体が動かない残り5分、10分のときにスプリントを繰り返したので、35歳だったし、かなりきたなって感じでしたね。

――サッカーはチームの強さで差が出ますね。
【大久保剛志】ベテラン選手は寿命が変わると思います。無理をしなくてもいい、10メートルのスプリントをするかしないかで、次の日の体の調子が違ってきます。勝っていると、楽をするわけではなく、勝つサッカーに切り替えられるんです。つまり、自然とセーブできるわけです。

――今のさまざまな活動も含めて、今後の展望、これからやっていきたいことを教えてもらえますか?
【大久保剛志】正直、今は毎日がいっぱいいっぱいで、これっていう明確なものはないのですが、まずはプレーヤーとしてのチャレンジを続けること。事業面では、バンコクがある程度落ち着いてきているので、バンコク側の魅力をもっとつくりあげつつ、日本側はまだまだ整備していかないといけないので、とにかく環境をよくして整えることが目標です。あと数年経って落ち着いたら、少し余裕ができて、次のステージが見えてくるかなとは思いますが、日本側でいうと、少子化で苦しんでいる地域で、サッカーに限らず、スポーツ全体を支えたいと思っています。僕たちはサッカーに特化していますが、サッカーでプロになれる人は本当に一握り。チームの中でプロになれるのはゼロとか、ひとりなんですよね。それ以外の人のほうが圧倒的に多いけど、なぜサッカーやスポーツがいいかというと、やっぱり仲間がいて成り立つものだから。互いに協力したり、しんどいときに仲間が助けてくれたりする。それから、自然と健康にも気を遣いますよね。いろいろな考えがあると思いますが、ずっと家で本を読んだりテレビを見たりするより、僕は運動がいいと考えています。あとは、子どもたちが輝いていると、大人も引っ張られるんじゃないかって思うんです。自分の子どもががんばったら僕もがんばろうってなりますし、町の子たちが輝いていたら誇りに思って、僕もがんばろうってなるかもしれない。そういう力がスポーツにはある。サッカーに限らず幅広くできたらいいなっていう、漠然な夢があります。できるかどうかは微妙ですけど(笑)、挑戦中です。

――大久保選手は、自分のことより周りのことが好きですよね。周りのためになることをいつも優先している印象です。
【大久保剛志】周りのためにしたことが、結局は自分に返ってくるということも何となくわかってきて、自分だけというより、みんなで何かをつくり上げられたら、自然と僕自身もハッピーになるんだと思います。

このインタビューから程なくして、バンコクFCとベガルタ仙台との包括連携協定が発表された。

「大久保選手には選手としてだけでなく、インターナショナルダイレクターというポジションでサポートしてもらっています。大久保選手の存在があったことでベガルタ仙台との連携が強まるきっかけとなったといえます」

バンコクFCのオーナーは2024年1月の包括連携協定の締結会見でそう語っていた。

今回のインタビュー当日、大久保選手はタイからの帰国し、その足で取材場所へと駆けつけてくれた。疲れているだろうに、笑顔で「すぐに始められますよ!あっ、これつまらないものですが…」と取材陣への手土産まで用意。端整な顔立ちをした大久保剛志という人物は、自分のこと以上に「周りのためになることをいつも優先する」内面もイケメンな人物だとあらためて思った。

「タイと日本をつなぐ存在」という夢に向けて、選手、そして起業家としてチャレンジを続ける大久保選手をこれからも見守りたい。