「卒業したら大学に就職して、准教授、教授に昇進したい」。博士課程で勉強する学生なら一度はこう思う。だが、現実は厳しく、大学や研究機関でのポストは限られており、卒業はしてみたがどこからもオファーが来ないということは珍しい話ではなくなっている。

中国では現在、若者の就職が難しくなっており、学部卒では就職が非常に難しいため、大学院を目指す学生が増えている。中には、博士課程まで進んで、研究の道を志すという学生も一定数いる。前述のように、博士課程を卒業しても、アカデミック関連の職に就ける保証はどこにもない。「博士後(ポストドクター)」に在籍して研究実績を積むとともに、人脈を広げ、大学や研究機関に就職するというのが「王道」のやり方だが、それも各学校に枠があり、競争が激しい。そのため、研究の道を諦めるという人も珍しくない。そういう筆者もその一人だ。

ただ、世間のイメージと違い、アカデミックな仕事に就いたとしても、定年まで安泰とは言えなくなっている。

「成果が出なければ、別の部門へ」ある大学の措置

11日付の新京報の評論記事は、山西省の太原師範大学が「ハイレベル人材誘致・安定の管理方法」という文書を出し、大学が雇用した博士人材が5年以内に副教授(准教授)に昇進できなければ、事務などの「後勤(後方支援)」業務か警備関連部署に配置転換されるという措置を打ち出したことを報じた。

この政策が出た背景について、記事は「博士課程の募集拡大に伴い、中国のハイレベル人材の供給関係が徐々に変化してきており、大量の博士が地方大学にどんどん向かっている」と指摘した。こうした中で、「一部大学が有名大学に倣って『昇進できなければ配置転換される(非昇即転)』、または『学校を去る(非昇即走)』という措置を取るのは理解できるが、地方大学が『昇進できなければ大学を去る』という措置のみを学び、長期的、綿密で、個性化した(制度)設計が欠けているならば、実施の中でこの政策の初心がねじ曲げられてしまい、多くの厄介な問題が起こるだろう」と“警告”する。

よく言われることだが、中国は人口が多いが、優秀な人材も多い。それは必然的に人材間の激しい競争を引き起こす。筆者が北京の大学の博士課程を卒業したとき、例に漏れず就職問題に直面した。このとき、中国人の友人に「重点大学(北京大学や清華大学などの有名校)ではなく、有名ではない大学ならチャンスはあるでしょう」とアドバイスされ、私立大学などにも履歴書を送ったことがある。筆者が卒業したのは2006年。中国経済は高度成長の段階にあったため、学部卒業生の就職難の話はあまり聞かなかった。当時も、アカデミックポストを得るのは難しく、地方大学でも「穴場」のようなところがあるという話も聞いた。

だが今は状況が一変している。よく知られている有名企業は基本的に大学院(修士)卒でないと採用されにくい。某有名IT企業で人事の仕事に携わっていた中国人の友人は、「学部卒の履歴書は基本見ないですね。大学院卒の人のものは見ますが」と語る。筆者の勤務先の大学の事務方の職員も大学院卒という。学校の事務は学部卒でも十分に対応でき、高い学歴は必要ない。にもかかわらず、院卒の職員を雇用するのは、希望者が多いため、どこかで「足切り」をするためだろうと思う。こうしたことから、大学院は自分の関心あるテーマを掘り下げて研究し、新しい「アイデア」を世に出すというものから、箔を付けるための「アクセサリー」的な存在になっている。

こうした中、大学など学術研究機関への就職は、地方であっても難しくなっている。就職できても、任期付きの雇用になったり、新京報の記事が取り上げた、一定期間内に昇進できなければ配置転換されたりするという雇用形態が出てきている。

「昇進できなければ学校を去る」という措置は、「一旦就職できれば定年まで安泰」というこれまでの観念を打ち破り、研究者が怠けることなく研究成果を生み出し、研究者間の競争を促進できるというメリットがある。また、「昇進できなければ配置転換する」という措置は見方を変えれば、競争に敗れた者への「セーフティーネット」の役割を果たしている。学者としてやっていくチャンスを与えられたが、思うような成果が出なかった者の中には、研究者としての適性、能力がなかった者もいるはずだ。そういう者にとっては、別のポジションで働くのは決して悪い選択ではない。

だが、こうした措置にも問題点がある。短期間で結果を出すことが求められるため、論文の「粗製乱造」が起こりやすくなるという点だ。中国の大学では、研究の質よりも量が重視される。北京の有名大学で教える中国人教師は、「大学からは1年間に発表する論文のノルマがある。それを達成しないと昇進どころかクビになってしまう。年末が近づくと、本当に焦る」と筆者に語った。論文の発表数のみを念頭に置にいて執筆すると、十分に検証せずに活字にしてしまうため、質の落ちる論文が出てくる。

ただ、現在は昇進にプラスとなる雑誌に投稿するには、一定のレベルに達していなければ掲載されない。そのため、十数年前のように「粗製乱造」という問題は起きにくくなったが、今度は発表雑誌の不足という問題が起きた。筆者の所属する学部の教師の専門は日本語、言語学、日本研究で、その方面の雑誌は数えるほどしかない。そのため、成果を求める研究者の間で激しい競争が繰り広げられる。それは研究のレベル向上につながるという面がある。

敗者復活の道を、より良い研究者間競争のためには?

前述のように、「昇進できなければ学校を去る、配置転換する」という措置は、学校の学術レベルの向上に資するものだが、この措置がうまく機能するには、次の2点を考える必要がある。

第一に、評価基準を多様化するという点だ。

論文は研究者の能力を測る上で重要な要素だが、大学は研究と教育という二つの機能がある。論文発表には熱心だが、教育はさっぱりという教師も珍しくない。筆者も常々感じているが、教育活動に重点を置くと、研究活動に割く時間が少なくなり、論文発表、学会での口頭発表が少なくなる。研究者への評価は論文のみに偏るのではなく、教育活動や社会活動での成果を評価することも必要だ。

第二に、「敗者復活」のプラットフォームを整えるという点だ。

学生から直接研究者の「卵」になった時は、認められるような研究成果を出せなかったが、研究の世界を一度離れて、別の仕事をすることによって、別の角度から自分の取り組んだ問題を見つめることができ、研究に深みが出ることもある。ただ、アカデミックポストは年齢制限があることが少なくなく、「敗者復活」がなかなか難しく、「自分が無能だった」と諦めるほかなかった。研究の世界をドロップアウトしたが、自分の実力を示し、研究職への道が開けるプラットフォームを整備することも必要だ。

博士号取得者が研究職に就けないという問題は日本でも同じだ。博士が活躍できる場を大学や研究機関だけでなく企業やその他の組織などにも広げる必要がある。ただ、何よりも、どうして大学院に行くか、大学院に行ってから何をするか、どんな成果を挙げるかということを学生自身が考え、研究者間の競争に加わるべきだと筆者は思う。