国民的バラエティ番組「笑点」の活躍などで知られる、林家木久扇師匠が本日3月31日の放送をもって番組を卒業する。新著『バカの遺言』(扶桑社新書)には、そんな木久扇師匠の“遺言”ともいうべき濃すぎる生涯が記されている。本インタビューでは、彼の生誕から駆け出しの頃に出会った、「2人の昭和の怪人」について話を聞いた。

小1の東京大空襲が原体験

――『バカの遺言』拝読いたしました。この本で語られる「バカ」は、一般的に使われる「バカ」とは全く違う、世の中を俯瞰で見て、自覚的に「バカ」でいるというか。生き方の名人芸だなと思いました。

林家木久扇(以下同)
 生き方の名人かどうか知りませんけれども、僕も86歳、いろんな目に遭ってるっていうことがありますね。人様から見るとスルスルっと生きてるみたいですけど。

例えば、小学校1年のときに東京大空襲を体験している。小学校1年生っていうのは、すごい感受性の初々しいときでね。気持ちがとても柔らかいときにアメリカの飛行機がやって来て、今のウクライナのあの状態なんです。

毎日怖かった、夜になるのがね。毎晩、明け方まで空がいつも明るかった。B29が300機飛んできて、ウサギのフンみたいに爆弾を落としていきましたから、もうすごい明るさだったんですよね。3回目の東京大空襲でうちが焼けたんですけれども、そのときのすごさというのはもう……。

林家木久扇師匠
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 ――小学校1年生……。

友達もたくさん亡くなった。それが基本なんですよ。僕、がん2回やってるし、腸閉塞もやってる。本当に死にそうになったんですけれども。ただ、がんにかかったっていうのは僕ひとりの体のことでね。空襲は大勢の人間が同じ体験するわけで、それに比べたら、僕は自分で我慢しようって思った。

まあ、落語家ですから、病気に小言を言ってたんですよね。がんを叱ってたんです。起きるたびに「なんで僕の中に入ってくるんだ」「僕は17 人の世話を焼いていて、食べさせなくちゃいけないんだ」「出てってくれ」って。

お医者さんも「そういう前向きな人はね、治るんだ」って言ってました。それを馬鹿馬鹿しいとは思ってないんです。こんなことを人が見たら笑うでしょうなんて思わないで、真剣に病気を治そうとしていた。

――本を拝読すると、病気にもお仕事にも遊びにも、常に真剣に取り組まれてらっしゃるのがよくわかりました。

自分の性格なのかな。「やってみよう」とか「どうなってるんだろう?」って気持ちがすごい強いんですよね。この間もBSで異星人はいるのかっていう特集をやってましたけど、私は信じてますからね。地球だけに人間っていうものがいるなんてことないだろうと。そういうことをね、馬鹿馬鹿しいと思わないで、すごく真面目に信じているんですよ。

破天荒すぎた、横山やすし

――それで言うと、故・横山やすしさんとのエピソードも、宇宙人レベルでした(笑)。実際近くにいる人は大変そうだなって思うんですけど、師匠はそれもおもしろがっていらっしゃった。

あんな大変な人にね、よくくっついてあっちこっち行ってるなって言われたんですけど、僕は、人って1冊の本だと思ったんですよ。

――1冊の本?

このシーンの次はどうなるんだろう?ってね。あの人お金持ってなくて、いつも僕が7万円ぐらい持って駆けつけて、みんな払っていたんですよ。変なスターなんですよね。お金がないの。そこんとこが僕はおもしろくておもしろくて。だって月に2000万って言ってたんです、吉本からもらうのが。

――2000万!?

そう。しかも飲んでるとあっという間に喧嘩が始まる。あるときなんかタクシーに2人で乗ったら、カーラジオで土居まさるさんの番組が流れてたの。そしたらいきなりドーン!って後ろから、運転手さんのシート蹴飛ばして、「なんやこら! 後ろにな、横山やすしと木久蔵が乗っとるんや! こっちの会話のほうがおもろいに決まってるやないか! そんなラジオ消せ、この野郎!」って蹴飛ばしてるんですね。

ああまた始まっちゃったと思って。こういうときのために用意している3000円入れたポチ袋を運転手さんにこっそり渡して。

――火がつくと師匠でもどうにもできないわけですか?

いや、こっちは本を読んでいるつもりだから止めないし。「あら、始まっちゃった」「この次のページどうなるんだろう?」という感じ。銀座のクラブでもありましたね。当時、銀座にひとり7万円くらいの店があったんだけど、 そこのママが落語が好きで「木久ちゃんは1万円でいいわよ」っていうんで、よく行ってたんですよ。来なくなっちゃった人のボトル飲んだりしてね。(やすしさんを)そこに連れていった。

店で「蛍の光」が流れたら閉店の合図で、僕が「やすしさん、これ流れると出なくちゃいけない、行こうよ」っていうと「なんや! おもろいところで何を言うてんねん! まだおるわ!」…「だったらまた来ようよ」「外でお寿司か何か食べよう」なんて言って、なんとかエレベーターホールまで連れ出す。

でも同じ時間に他の店も蛍の光だから、エレベーターはみんな満員なの。乗れないのよ。ドアが開いて満員でというのが3回くらい続いたら……キレたの。
 

――ああ(笑)。

「こらー! おまえら80万か100万取っとるんか知らんがな、わしはな、月2000万や!2000万が乗れなくてな、80万100万がなんで乗れんねん!」って。始まっちゃった……。僕がもう、地面に手ついて「酔ってるんですみません」って謝って。

――なんて理不尽な……(笑)。

そうなんだけど、でも瞬間に「2000万円が乗れなくて、80万、100万がなんで乗っとるのや」って言うのがおもしろいでしょ。そんなセリフ、普通思いつかないもん。「もっと詰めろ」とか「乗れるやろ、1人ぐらい」とかっていうのはあるけど、いきなりお金の話でしょ? そんな人いませんよ。だから、おもしろいじゃない。本としては。

――なぜお2人は気が合ったんでしょうか。

昔あの人の司会でね、大喜利番組があったんです。有楽町の読売ホール、あそこで収録していたんですけど。休憩時間にやすしさんが、ビルの上から駅のほうを見ながら寂しそうにしてたから、「ご機嫌いかがです? どうです、収録は?」って話しかけたら、「おもろないなー」と。「わしはな、東京に友達おらんのや。だからな、こうやってると、おもろない。大阪帰りたいわ」って言ってきたから、「じゃあ、私でよかったら」って名刺の交換しちゃったのが間違い。

――そこが本の始まりだった(笑)。

そう(笑)。

談志に言われた「お前すげえやつだな、売れるぞ」

――『バカの遺言』にはそういう師匠の“コミュニケーションお化け”なエピソードがたくさん出てきます。

僕が前座のとき、昭和37〜38年の頃かな。夏、昼席で2時頃、(立川)談志さんが飛び込んできた。「暑い、 暑い」って言って。「こういう暑い日はなー、落語やるのは面倒くさいしな、しょうがない、風呂でも行くか」って言ったんですよ。

落語の前座は着物畳んだり座布団返したりお茶出したり、すごい働かなきゃいけないの。終わると自分も汗かくから、お風呂行くための一式は常に持っていたのね。タオルと石鹼箱と、それから髭剃り。

で、談志さんが降りてきて着替えて「風呂行く」って騒いでいるから、僕が「これ使ってください」って風呂道具一式を出したの。そしたら、談志さんに「お前すげえやつだな、売れるぞ」って言われたの。それから談志さんがなにかっていうと僕に目を掛けてくれて、「おい、木久蔵いるか」っつって。

――すごい。

当時、あの人まだ柳家小ゑんっていって、お弟子さんいないときだから、そのカバン持ちみたいな役でいつも引っ張られて。

あの人はね、すごいお金稼ぐのが上手くて。当時、キャバレーの仕事があったんだけど、ストリップとかものまねとか、あと歌手が歌う中で、漫談やってたのはあの人だけだった。それで、エッチな話もずいぶんしていてね。だってお酒飲んで女の子をなんとかしようとしてる場所だから、普通の話しても誰も聞かないわけです。

――なるほど。

談志さんが参議院選に立候補したときも手伝いましたよ。演説するにもやっぱり政策は喋らないんですよね。いきなりね、「俺はおもしろいことを言うからな、笑ったやつは一票入れてくれ」って。

「犬がいるんだ、大きい犬がな。それ連れて太ったオヤジがこっちから来るんだよ。でね? 小さい犬ね、胴体が長くて足が短くて顔の長い犬連れてね、こっちから若いやつが来るんだ。街角だろ? 犬と犬だ。喧嘩、すげぇぞ〜、ワワワワン〜!」「小さい犬が強くてね、大きい犬が喉のとこ噛まれちゃって隅っこでキャンキャン鳴いてるんだよ。大きい犬連れてきたおいちゃんが驚いちゃってねぇ。『強い犬ですねぇ。小さいくせに強えや。見たこともない種類ですけど、この犬はどういった犬なんですか?』『あ、この犬はね、尻尾を切って白く塗る前はワニだったんです』」。

それが演説なんだよ(笑)。

でも錦糸町駅前の、立って聞いていた有権者みんな笑った。そういう体験はさせてもらいましたね。

――寂しそうなやすしさんに話しかけたり、談志さんに入浴セットをさりげなく渡したりという“気配り”から縁が始まった。

“気が付く”って言うのが昔からありますね。

取材・文/西澤千央 撮影/野﨑慧嗣