聖望学園中学サッカー部が、創部2年目で昨秋の埼玉県新人大会を制した。指導するのはアルビレックス新潟とザスパ草津(現ザスパ群馬)でプレーした元Jリーガーの生方繁監督。引退後は草津とSC相模原の下部組織で監督やコーチを13年務めるなど、育成年代に長く携わってきたこの道の中堅指導者である。

 遍歴と曲折を重ねてここまでたどり着いた。

 東京・国士舘高校から国士舘大学体育学部への推薦入学に失敗したうえ、一般受験でも不合格。そこで留学生制度を利用して1997年にイタリアへ渡り、当時5部のサンジュステーゼとサンベニーニョに2シーズン在籍した。3年目はJリーグでプレーしたくて強豪クラブからの誘いを断り、日本へ戻ってきたのだが......。

 柏レイソルや横浜マリノス、セレッソ大阪など6チームの選考会に挑んでは落ち続けた。それでも夢は捨てない。新潟のアップルスポーツカレッジ(現JAPANサッカーカレッジ)で認めてもらえば、提携するJ2新潟へ進める可能性があると聞いた。「挑戦というか、プロへの道を切り開くには、もうそれしかなかったんですよ」と回想する。

 1回戦で徳山大(山口)に敗れたが、MFの主力として2000年度の第80回天皇杯に新潟県代表で初出場。首尾よく新潟に引き上げてもらい、01年に夢を実現させた。しかしリーグ戦は2試合にベンチ入りしただけで出番はなし。第81回天皇杯でマインドハウスTC(三重)との1回戦に途中出場したのが、Jリーガーとして唯一の戦歴であった。

 02年に群馬県リーグ1部の草津へ移籍し04年までプレー。「最終シーズンは昇格したJFLで3位、天皇杯も8強とチームは好調だったのに、自分は2試合しか出られず燃焼し切れなかった」とし、九州リーグのロッソ熊本(現ロアッソ熊本)のセレクションに臨んだが吉報は届かず、引退の腹を固めた。

 この選考会を前に草津からアカデミーのコーチ就任を打診されたが、現役にこだわって固辞していた。

 身の振り方を思案するなか、行く末を案じた草津の監督だった奥野僚右から連絡が入った。一度断っているので自分から草津には頼めないとの旨を伝えると、奥野は「必要だから誘われたんじゃないか」と言って取り次いでくれたのだ。生方の人柄とサッカーへの情熱がそうさせた。
 
 05年から草津の育成組織で指導者に転身。赤堀ジュニアユースの初代監督を皮切りに、草津U−18コーチやU−15監督、アカデミーダイレクター補佐などを13年まで歴任し、14年から17年まで相模原ジュニアユースでコーチを務めた。

 14年4月からはコーチ業と並行し、日本サッカー協会「こころのプロジェクト」の一環である東日本大震災復興支援に携わり、21年3月まで“夢先生”として活動。鹿島アントラーズなどで活躍した金古聖司とはここで知り合って懇意になり、聖望学園中が監督を探している情報を教えてもらった。21年4月から学園の事務職員となり、1年後に創設するサッカー部の準備に取り掛かる。

 草津と相模原では主に中学生と向き合ってきたが、この13年間で最も学び、現在の指導に活かされているのが、子どもたちに主体性を持たせることの重要性だという。

「聖望に来てから試合ではスパイクを履かずにトレーニングシューズなんです。スパイクだと『俺も一緒に戦うぞ。選手に高みを見せてあげるんだ』ってのめり込んで彼らから主体性を奪い、ベンチをうかがいながらプレーする回数が増えちゃうんじゃないかと思いましてね。トレーニングシュートなら力も抜けて自分を制御できるんです(笑)」

“夢先生”に従事してから、さらにこの考えが強くなったそうだ。

 何の興味も示さない子どもに、関心を抱かせるのが生方の重要な任務のひとつだった。「自分で考えて発信し、それをもとに行動することは何をするにしても大切だと感じた」とうなずきながら力説する。
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 聖望学園中では、草津や相模原のアカデミーと“夢先生”の経験を活かし、主体性と自主性を重んじたアプローチを徹底している。

 ともに一期生のFW指田風太が「自ら発信してプレーすることの意義を教わってきたので、うちのチームには柔軟性があります」と胸を張れば、DF近澤金之助は「試合では特別なルールや縛りがなく、自分たちで判断して自由に攻撃的に戦っている」とチームの特長を紹介した。

 一期生が小学6年だった21年は、体験練習会などを通じてチームづくりへの熱い思いを語ると20人が集まった。MF小鷹洸(2年)は「監督の教え方がすごく良かったし、練習会の雰囲気も楽しかったので決めました」と聖望学園を選んだ理由を説明。二期生は21人が入部した。

 夏の全国中学校大会の予選となる学校総体は、1年生だけで臨んだ2年前が1回戦敗退。3回戦で敗れた昨年は、3学年そろった相手に2勝する健闘ぶり。しかしGKとFWを兼務する竹川凌平(2年)は「3年生がいるチームにだって負けたのは悔しい。うちは個の強い選手が多いから、それをバネに新人大会優勝につなげた」と強気な一面を見せた。

 主将はいない。指示待ち人間をなくし、言われたこと以外にも創造力を働かせ、全員に統率力を植え付けるのが狙いだ。練習後の締めのひと言も、毎日が違う顔ぶれ。人生で何かの役に立つと生方は信じる。
 
 練習は高校チームと同じ人工芝のフルコートのほかフットサル場も使う。個人の技術的なスキルを上げるメニューに時間を割き、外からではなく、ピッチ中央から縦へ前へと相手ゴールに向かっていく迫力満点の攻撃を追求する。昨年11月の新人大会は、1回戦から決勝までの6試合で30得点・2失点という会心の数字で初優勝。生方は練習の成果が結果に表れ始めたと喜ぶ。

 うまいと言われるより、強いとか怖いと評されるチームが理想だ。

 13年に日本協会公認の指導者資格A級ジェネラルを取得し、最高ランクのS級にも挑戦したが受からなかった。しかし生方は「もう必要ありません。自分はこの年代と接し、少しずつ子どもたちの力を積み上げていくのが性に合っている。この仕事が好きなんですよ」と天職に身を砕く日々に感謝した。

(文中敬称略)

取材・文●河野 正

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