連載 怪物・江川卓伝〜大学生活スタート(前編)

 江川卓が第1希望の慶應義塾大ではなく、急遽、法政大に入ったことで、その年に入部した1年生はオールジャパンのような豪華布陣となった。

 作新学院の江川を筆頭に、静岡高の植松精一、水野彰夫、広島商の佃正樹、楠原基、金光興二、箕島の島本啓次郎、静岡県自動車工業高(現・静岡北高)の袴田英利......ひとつの大学にこれだけの人材が集まることなど、異例中の異例だった。

 江川、植松、水野は慶應大、島本は明治大に落ちたおかげで、法政大「花の49年組」が結成されたのだ。


柔軟体操で佃正樹(写真手前下)の背中を押す江川卓 photo by Sankei Visual

【大学1年春は体力強化に専念】

 そのなかでも江川の注目度はひと際高かったが、入部した彼の姿を見て、首脳陣はもちろん同期もびっくりした。夏の甲子園が終わってからの半年、江川は受験勉強に没頭していたため体重が増大。入部初日の江川は、まるで力士かと思うほどの体型で現れた。誰が見ても、動けるような体つきではなかった。

 法政大の監督である五明公男は、その姿を見てつぶやいた。

「なんて体してやがるんだ......春は使えんな」

 そのため、目標を秋のリーグ戦にさだめ、春は体力強化に専念した。

 熊谷商のエースとして甲子園を目指すも、3年連続夏の県大会決勝で敗れた"悲劇の左腕" 鎗田英男が、入学当時の江川について語ってくれた。

「高校時代は1年秋、2年春、3年春の関東大会で、あと少しで対戦できたのですが、こっちが先に負けたり、作新が負けてしまったりと、結局対戦できませんでした。高校時代に当時法政大の選手だった高浦美佐緒さん(元大洋)が指導に来てくれて、いい人だなと思って法政に進学しました。広島商の連中が来ることは知っていましたが、まさか江川や植松が来るとは知らず、びっくりしたのを記憶しています。

 大学に入った時、最初は自分のほうが上だと思っていました。入学当初の江川はかなり太っていましたから。こりゃ、投げられないだろうなと。1年春の時点で、江川はまだ実力を見せていなかった。だけど夏が過ぎ、体を絞ってきたときに『勝てないな』と思いました。1年秋は自分もブルペンに入っていたのですが、一緒にやって初めて江川のすごさがわかりました。ブルペンで自分のほうが先に振りかぶって投げたのに、ワンテンポ遅れて投げた江川のほうが先にミットに届いている。『ウソでしょ⁉︎』って思われるけど、それくらい違った。かなうはずがないと思いました」

 江川の1年春のシーズンは、東大戦で2イニングを投げたのみ。そしてリーグ戦終了後に行なわれた新人戦の準決勝(慶應戦)に先発し完投勝利。すべては、来るべき秋のリーグ戦に向けての準備だった。怪物・江川の本格神宮デビューを演出するため、念入りに育成計画が施された。

【広商伝統の精神野球の申し子】

 その江川に代わり、五明が1年春から使えると期待したのが、3年春はセンバツ準優勝、夏は全国制覇を成し遂げた広島商出身の佃だった。小柄だが、スリークォーターからテンポのいいキレのあるボールを投げる左腕。ルックスも色白の童顔で、女性人気は"江川世代"ではナンバーワンだった。

 高校時代の実績もさることながら、法政大でも5季連続優勝、その後進むことになる三菱自動車広島でも都市対抗優勝......「江川に勝った男」の球歴は、一見、絵に描いたような"野球エリート"の道を歩んできたように思える。だが、大学進学後の佃は決して順風満帆ではなかった。

 広島商時代、バッテリーを組んでいた達川光男は、目をまっすぐに見据えながらこう語った。

「佃は、高校野球で燃え尽きるピッチングをしたんよ。まっすぐを捨てて、カーブで生きて......。毎日300球から400球ぐらい投げて、投げて、投げまくって、走って、走って、走りまくっていた」

 佃はみんなの前でどれだけ怒られようが、しごかれようが、弱音は吐かず、絶対にへこたれなかった。いつも飄々としており、口数も少ないが、内に秘めた闘志はすさまじく、監督たちもそれがわかっていたからこそ、あえて厳しく鍛えた。

 広島商時代の監督だった迫田穆成(さこだ・よしあき)は、長年の監督生活のなかで、佃ほど「ここぞ」という場面で信頼できたピッチャーはいないと断言する。

「佃のやる気のすごさは、今の子どもたちに伝えようと思っても伝わらないでしょうね。ピッチャーが弱気になってストライクを取りにいこうとする姿を一回でも見せると、次の打者にやられます。でも佃は、『ここが勝負』というときに、必ず打ちとってくれました。そんなピッチャー、今いないですよ」

 迫田は、佃こそ広島商の"精神野球の申し子"と言わんばかりに熱く語る。

 高校時代の華々しい成績から一転、佃の大学4年間の成績は登板2試合、0勝1敗。江川は大学時代の佃をこう述懐する。

「甲子園で打席に立ったときの印象が強くて、あいつのカーブに手こずりました。ストレートはそんなに速くないんですけど、落ちてきて曲がるような変化球......当時はカーブって言ってたんですけど、今でいうスライダーのようなボールが打ちづらかったのが印象に残っていますね。

 法政に入ってから伸び悩んだみたいで、一緒に投げる機会が少なくて終わっちゃたんですけどね。左ピッチャーでは鎗田、中林(千年)がいて、そのふたりに追いつけなかったという感じですね。でも、合宿所ではいろいろ話しました」

 植松にも大学時代の佃のことを聞くと、少しうつむいた表情で口を開いた。

「結局、リーグ戦って2勝すれば終わっちゃうから、江川、鎗田で回っちゃうんです。1勝1敗になって3戦目になっても、勝ち点を取りにいくから江川が投げるし。鎗田は左で速い球を投げるし、中林は小柄だけどとんでもないカーブを投げるし......佃は、力的には4番手とかになっていましたね」

【江川よりも早くベンチ入り】

 同じ左腕の鎗田は、投手としての佃を冷静に分析してくれた。

「佃は間(ま)とか駆け引きがうまくて、実戦で生きるピッチャー。1年春の早大戦で途中から登板し、相手の3番、4番を連続三振に打ちとったんです。それで次の東大戦に先発したんだけど、運悪く打たれたんですよ。東大戦で打たれるとバッシングが大きい。それで監督も使いづらくなったんですかね。実戦から離れると、彼の持ち味がなくなってしまう。それでも彼はすごい練習量で、走る量も半端じゃなかった。後輩の模範となるのは佃でしたね。だから監督も試合では使いづらいけど、ずっとベンチに入れていました」

 1年春のリーグ戦では、江川よりも早くベンチ入りしている。五明は報道陣に「佃は先発要員としてベンチ入りさせる」と語るほど、期待を寄せていた。

 そんな佃だが、高校時代からの持病であった右膝痛が悪化。ただ、このケガのことは大学時代から付き合っていた妻の朱美にしか打ち明けていなかったが、一度だけポロッと漏らしたことがある。

「自分としては、フォームを変えたくなかったんだよなぁ」

 佃が生涯で唯一、野球について語った悔恨の言葉である。

 大学に入ってからは、右膝が痛むのか、突っ立って投げている感はあった。

 74年5月26日、春のリーグ戦の東大戦で先発した佃は、1回1/3を投げて3失点(自責点3)で負け投手になっている。これが大学時代の唯一の先発であり、最後の登板でもあった。

 それでも希望を捨てず、ひたすら練習を繰り返す不屈の男であった。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者:松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin