連載 怪物・江川卓伝〜大学生活スタート(後編)

前編:江川卓は法政大の練習初日に力士のような体で現れたはこちら>>

 江川卓の大学デビューは、実質的に1年秋のリーグ戦から始まったと言える。受験勉強の影響で体重が増大し、1年春はトレーニングに徹したためだ。

 法政大OBの藤田省三と4年の控え捕手だった高浦美佐緒(元大洋)が、江川のトレーニングメニューを考案。徹底した走り込みで体を絞り、感覚を取り戻すためにNHKにまで出向いて3年春のセンバツの時のビデオを見て、何度もフォームの確認を行なった。その甲斐あって、秋にはいつもの江川に戻っていた。


1年秋に6勝を挙げ、6シーズンぶりの優勝に貢献した江川卓 photo by Sankei Visual

【プロ予備軍の早大を圧倒】

 春の新人戦で好投し、1年秋からベンチ入りしたサウスポーの鎗田英男が、当時の江川について語る。

「僕も大学1年から140キロの球は投げられましたが、10球同じところに同じ球速で投げられるのは江川しかいない。1、2球だけだったら投げられますが、連続してはできない。江川は速いだけでなく、コントロールが抜群だった」

 そしてこんなエピソードを教えてくれた。

「江川が1戦目に投げるんですけど、みんな打たないんです。それでも試合は1対0か2対0で勝つ。2戦目は私が投げるのですが、みんな打ってくれるんです。当時の法政は土日で連勝すると、月火水が休みになる。なんとか3日間休みをもらおうと、みんな必死になる。江川が投げるときは点を取られないという安心感があったのでしょうね」

 そして1年秋のリーグ戦、満を持して初戦の立教大戦に先発した江川は、延長11回を2安打10奪三振の快投で1対0の完封勝利。ただ関係者は、立教の実力から完封しても当たり前と見ており、次戦の早稲田大戦こそが江川の真価が問われる試合になると思っていた。

 当時の早稲田大は、1番に松本匡史(のちに巨人)、3番に吉沢俊幸(のちに阪急)、4番にロッテの2位指名を拒否し、のちに「ミスター社会人」と呼ばれる前川善裕がおり、ほかにもショートに八木茂(のちに日本鋼管→阪急)、キャッチャーに山倉和博(のちに巨人)と錚々たるメンバーだった。

 プロ予備軍ともいえる早稲田大、春のリーグ戦の覇者であり、江川のボールが通用するのが、本当の意味で試金石となる一戦となった。

 体が絞れたとはいえ、まだ7割程度にしか戻っていない江川は、立ち上がりを攻められるも早稲田打線を球威で押し込む。2回にエラー、四球などで一死一、三塁とし、併殺崩れの間に1点を奪われるも、許したのはこの得点のみ。奪った三振こそ3つだったが、被安打5で完投勝利。むやみに三振は狙わず、省エネピッチングに徹した。

 ただ、江川にとってひとつだけショックな出来事があった。それは9回二死で迎えた八木に対して、三振を狙いにいくもストレートをセンター前に運ばれた。高校時代は、三振を狙って投げた球は打たれたことがなかった。大学野球のレベルの高さを感じ瞬間であったが、それでも秋のリーグ戦は6勝1敗、防御率1.14という成績で6シーズンぶりの優勝に貢献。1年生にして胴上げ投手となった。

【剛腕から老獪な投手へ変貌】

 静岡高校時代、木製バットにもかかわらず通算36本塁打を記録し、3年夏は甲子園準優勝、法政大でも主力として活躍し、77年のドラフトで阪神から2位指名を受けた植松精一に、大学時代の江川について尋ねてみた。

「大学のリーグ戦は2勝すればいいから、第1戦に江川が先発し、第2戦は状況によってリリーフ、第3戦までもつれるとまた先発というパターンだったから、省エネ投法に徹していましたね。高校時代はバッタバッタと三振をとる剛腕だったけど、大学時代はかわすピッチングで老獪でしたよ。でも、ランナーが二塁にいくと力を入れて投げるんだよね。どうだろう、1試合で本気に投げた球って数球しかなかったと思うよ。そうしないと体がもたないというのもあったんだろうね。でも、江川のレベルは突出していました。僕もプロに入ってからいろいろなピッチャーを見ましたけど、『速いなぁ』と感じたことはあっても、『打てない』と思ったことはなかったです。それは江川を見てきたから」

 法政大の4番を張っていた徳永利美にも話を聞かせてもらった。徳永は柳川商業の4番として、高校3年夏の甲子園1回戦で作新学院と対戦。チームメイトがバットを短く持ってミート打法に徹するなか、徳永だけは自由に打つことを許された逸話があるほどの強打の一塁手だ。

「一塁を守っていると、右打者の先っぽとかに当たった変な回転の打球がきて、いつもセカンドの金光(興二)と『こっちにくる打球は嫌だな』と言っていました。一塁線にクルクル回転する当たり損ないの打球は捕るのが難しいんです。あと、フリーバッティングで投げることはめったにないんだけど、たまに嫌味で投げてくることがあって、しかもインコースを突いてくるんです。バットを何本も折られました(笑)。コントロールがいいからぶつけられるという恐怖心はないんだけど、軽く投げているのにボールの回転がいいから飛ばない。本気の球を想像すると、やっぱり江川ってすごい投手なんだと思いますよね」

 甲子園から神宮に舞台を移しても、江川のスケールは変わらない。ヒジが少し下がり、フォームに迫力がなくなり、打たせるピッチングに徹しても、要所で投げる本気のボールは超一級品。

 誰もが江川の明るい未来を疑わなかった。しかし、高校1年時からきらめくようなスター街道を走り続けてきた江川に陰りが見え隠れしたのは、大学2年の秋口だった。

(文中敬称略)

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者:松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin