戦車のことを一般的に英語圏では「タンク(Tank)」と呼んでいますが、日本語の「戦車」は古代の「チャリオット(Chariot)」も意味に含みます。時代も姿も違うのに一体なぜでしょうか。

全く別の乗りものを“戦車”と呼ぶ理由とは

 戦車のことを一般的に英語圏では「タンク(Tank)」と呼ぶのは、多くの人がご存じかと思います。しかし日本語の「戦車」には、タロットカードや古代史の資料などにも登場する「チャリオット(Chariot)」も意味に含みます。時代も作りも全く別の乗りものですが、なぜどちらとも日本では「戦車」と呼ばれるのでしょうか。

 まず、戦車(チャリオット)という兵器が誕生したのは紀元前2000年頃のことだといいます。もちろんこのころの戦車は、現代のように金属の装甲で覆われた巨大な砲を持っていたわけではありません。当時の戦車は、2頭から4頭の馬にひかせた車に御者と弓などの武器を持った戦士を乗せたもので、これを「チャリオット」や「クワドリカ」などと呼び、戦場で運用していました。

 このチャリオットは、古代の戦場においては花形であり主力でした。『旧約聖書』や中国の歴史書『史記』にも、大規模なチャリオット同士の戦車戦が行われたことが書かれており、馬の調教、御者の育成、馬車のメンテナンスなど、その戦力維持のために莫大なコストがかかったことなども記されています。

 その後、紀元前700年ごろから馬の背に座ることができる鞍(くら)が発達すると、コストも低く、戦闘でも臨機応変に対応できることから騎兵が主体となり、チャリオットは徐々に戦場で姿を消していきます。そして、西暦が始まる頃には前線で使われることはほぼなくなります。

 実は日本はというと、大陸国家のようにチャリオット自体を使った記録が確認できません。そのため、戦車(タンク)登場以前の「戦車」という言葉は、学術的な資料には登場するものの、そこまで馴染み深いことばではありませんでした。

 そして、チャリオットが廃れてから2000年近くの時を経て、「タンク」が1916年9月15日に初めて実戦投入されます。

 第一次世界大戦の戦いが長期化し、塹壕戦に厭戦ムードが漂い始めたころ「敵の攻撃を弾き、塹壕を乗り越えて攻撃を行う、履帯(キャタピラ)を持つトラクターを重装甲化した車両を作れないだろうか」と、イギリス陸軍が考え、構想を練ったのが最初だと言われています。

 当時海軍大臣だったウィンストン・チャーチルがこの新兵器に興味を持ち、「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始され、これが後の「タンク」となります。

 なぜ、「タンク」になったかについては諸説あります。少しでもその存在を隠して戦場で華々しくデビューさせたいイギリス軍は、この巨大な新兵器を「ウォータータンクだ」と偽り、戦場へと運び込んだと言われていますが、話の真偽は不明と言わざるを得ません。ともあれこの時、新型の陸戦の王者は「タンク」と呼ばれるようになりました。

実は最初は日本でも「タンク」呼びだった!?

 実は日本でもこの陸の新兵器が登場した当初は単にTankをカタカナ読みした「タンク」で呼んでいました。1918年10月に、歴史上最初に日本が所有する戦車となったMk.IVひし形戦車をイギリスから輸入した際にも、当時の新聞には「タンク」と表記されており、まだ「戦車」ではありませんでした。

 では、なぜ戦車と呼ばれるようになったかはハッキリしていませんが、1922年の論文では、既に「Tank」の訳語として戦車が当てられるようになっており、大正時代の末には「戦車」呼びが定着していたと思われます。陸軍の会合で、とある中尉がチャリオットに使われた「戦車」という言葉を「タンク」に当ててはどうかと提案したともいわれています。

 日本にとって「チャリオット(戦車)」の馴染みが薄かったため受け入れられた言葉かもしれません。ちなみに中国では、Tankをそのまま訳した「坦克」と呼んでおり、戦車(チャリオット)とは明確にわけています。

 では、日本のように戦車(タンク)を現代の「チャリオット」のように考えている国は、ほかにあるのでしょうか。実はあります。

 チャリオットが生まれた古代オリエント時代に中心地であった中東、イスラエルにその血をひく戦車が残されています。言わずと知れたイスラエルの主力戦車「メルカバ」。この名は「チャリオット」をヘブライ語読みした言葉であり、『旧約聖書』に登場する「神の戦車」を意味する名前だそうです。分類では、「タンク」かも知れませんが、「チャリオット」もまた、現代戦車の中に息づいているのです。

※誤字を修正しました(5月3日10時00分)。