1992年1月、日本政府は、アメリカとの貿易摩擦で対応を迫られていた。対日貿易の赤字に直面するアメリカは苛立っている。それまで繊維、鉄鋼、カラーテレビ、自動車などの対米輸出規制や牛肉、オレンジといった農産物輸入自由化を順次受け入れてきたが、日本への圧力は収まらない。
 こうした中、宮沢喜一首相(肩書はいずれも当時)は訪日したブッシュ(父)米大統領との首脳会談で踏み込んだ具体策を打ち出す。
 「日本企業が調達する米国製自動車部品の総額を90億ドルから2倍以上の190億ドルに拡大する」
 旧大蔵官僚出身で理論派として鳴らした宮沢氏。会談後、この数値目標の取りまとめを指揮した旧通商産業省(現経済産業省)の事務方トップ、事務次官の棚橋祐治氏に声をかけた。
 「ありがとう。ブッシュ大統領に礼を言われたよ」
 宮沢氏に表だってねぎらわれたのは、後にも先にもこの1回だけ―。約30年の時を経て外務省が公開した外交文書を基に、89歳の棚橋氏が目標額決着までの国内調整の内幕を語った。(共同通信=徳光まり)

 ▽業界トップと秘密会談
 ―2023年12月20日に外務省が公開した文書によると、1992年1月8日の首脳会談全体会合で、渡部恒三通産相が「自動車業界と話し合った結果、94年度にかけて、米国製自動車部品の調達が90億ドルから190億ドルへと100億ドル増加する」と表明したと記されています。日本国内の自動車メーカーをどのように説得しましたか。
 「確か1月3日か4日でした。宮沢首相の意向を受けて、トヨタ自動車の豊田章一郎社長と私が秘密裏に会談して最終的に了解を取り付けました。この直前の年末から元旦にかけて、通産省の自動車課員らが内容を調整していました。事務次官をヘッドに50人前後の職員が関わっていたと思います」
 ―打ち合わせた中身とは。
 「どれだけ部品を買い増せるか。まずは、ゼネラル・モーターズ(GM)やフォードなど米自動車大手の部品メーカーが、日本車の部品を作れるかどうか、技術とコストの両面で詰めました」
 ―綿密に数字を積み上げた上で、最大手のトヨタと合意したのですね。
 「豊田さんが最後は(数字を)飲んでくれました」

 ▽米との駆け引き
 ―92年1月の日米首脳会談に先立ち、棚橋さんは91年12月に来日したゼーリック米国務次官と会談していますね。その時点で数値目標は固まっていたのでしょうか。
 「案としてはあったけれども、アメリカとの駆け引きで、ゼーリックさんとの会談では明らかにしませんでした」
 ―日本は当時、バブル経済のさなかで産業の要の自動車業界は破竹の勢い。米市場への進出を拡大していた日本への反感をかわそうと、日本は80年代から対米輸出を自主規制していました。豊田さんは抵抗しなかったのですか。
 「最初は渋っていましたよ。日米自動車摩擦は、もう何年も続いていて、日本は既に輸出を制限して自粛しているのに、心外だと」
 ―そこから、どのように説得したのでしょうか。
 「日米両方の業界のことを考えると、日本側にも妥協してもらわないと困ると。誠心誠意お願いしました。完成車の輸出の数量を抑えるには限界があった。だから米国製部品の調達を増やすということになったわけです。豊田さんには感謝しました。日本のためになると分かってくださった」

 ▽日米関係を考えて顔を立てた
 ―再選が危ぶまれていたブッシュ氏に、何らかの成果を用意しなければいけないというプレッシャーはありましたか。
 「日米関係を考えて、宮沢首相はブッシュ氏の顔が立つように努力された。いかに首相がブッシュ氏に尽くしたか、先方にも伝わったでしょう」
 ―具体的な目標提示にこだわりはありましたか。
 「役人を何十年もやってきた経験から、抽象論ばかり言っていても仕方がないという気持ちでした。宮沢首相が会談後、慰労の言葉をかけてくれたのは、私たちの苦心をご存じだったから。うれしかったですよ。官僚の能力や領分をよく分かっていて、めったに人を褒めない人でしたからね」
 ―豊田氏の印象は。
 「理論家なところは豊田さんも宮沢首相と同じ。理屈が通らないことには大変厳しかった。だが、最後は宮沢首相とブッシュ氏の両方の立場を考えてくれた。自動車業界での豊田さんの力は抜群に大きかった。豊田さんがいなければ、まとまらなかった。見識のある人でした」

 ▽約束した以上はやらなくては
 ―ブッシュ氏は会談時の体調不良による転倒も影響し、帰国後の92年の大統領選に敗れて再選を果たせませんでした。ただ、会談成果はその後の日米自動車摩擦の解消に貢献したとの見方もあります。
 「後日談があってね。会談から1年たった93年の正月、豊田さんから宴会場で声をかけられました。『棚橋さん、やってみるものですね』と」
 ―やってみる、とは。
 「豊田さんは日米交渉後、アメリカに行ってレンタカーで主要部品メーカーを回ったというんです。技術と財務の専門家を乗せて、チームを作って米国の全土を回ったと。アメリカの自動車メーカーで日本の自動車の部品を技術的に作れるかどうか。三十数カ所を回ったと言っていた」
 ―口約束で終わらせず、自ら目標達成に動いたわけですね。
 「そんなことまでしていただいたのかと驚いた。豊田さんは人柄が真面目だから。約束した以上はやらなくてはいけないと。トヨタのおかげで官民一体となってできました」
  × × ×
 棚橋氏は91年から93年まで事務次官を務めた。退官後、2001年から石油資源開発社長、08年同社会長。現在、シティユーワ法律事務所で弁護士・弁理士を務める。